数十年前の日本では常識だったことが今では常識ではなくなっている、ということがあります。たとえば数十年前の日本では、個人の恋愛よりも「家」を維持することの方が重要なこととされていました。

数十年前の日本では常識だったことが今では常識ではなくなっている、ということがあります。

たとえば数十年前の日本では、個人の恋愛よりも「家」を維持することの方が重要なこととされていました。長男は両親と同居して家と墓を守るのが常識だったわけですが、今では「家」や「墓」を守ることよりも個人の恋愛の方が重要なこととして扱われるようになりましたし、お葬式も随分と簡素になりました。

若い人の意識だけが変わっただけではなくて、年配の人達の側も意識が変わりました。年配の人達も、簡素なお葬式に「最近のお葬式はこんなもんだ」と受け止めますし、なかなか結婚しない息子や娘に対しても「最近では珍しいことでもない」と受け入れることが出来ます。つまり常識が変わったわけです。

常識が変わるには時間がかかりますが、すべての常識は時間の経過と共に変化していきます。あなたは常識として「人命は尊い」と思っているでしょうが(私も思っていますが)その常識が通用しなかった時代もあったのです。常識はゆっくりとしかし確実に変化します。

常識が変わってしまうと、いったいあの常識はなんだったんだろう?という気持ちになります。

「墓があるから、私はこの土地から離れられない」という人の気持ちが現代に生きる我々には理解できませんが、ほんの数十年前の日本にはそういう理由で人生の岐路での決断を下した人がたくさんいたわけです。

同様に、今あなたが大切だと思っている常識も数十年後にはなくなっている可能性があるわけで、数十年後にはあの常識は何だったんだろう?なぜそんなものに従ってしまったのだろう?という気持ちになっているのかもしれません。

一方で、常識があるから社会の秩序が保たれているのは事実で、常識というのが世の中に必要なものであることは間違いありません。社会を構成する人々が「常識として、こんなことをしてはダメだ」と思っているおかげで、盗みや強盗や強姦をしてしまう人がごく少数しかいないわけです。

ただ常識は社会の秩序を守るための道具であって、ひとり一人の人間を幸せにするための装置ではありません。

ひたすらに常識を守ればその先に幸せな生活が待っているわけではありません。常識には元々そんな機能は備わっていないのです。常識とはひとり一人の人間を幸せにするために存在しているものではなく、あくまでも社会の秩序を維持するために存在しているものでしかありません。

つまり、一人の人が自分なりの幸せを見つけるためには、自分の頭で考えて自分の意思で行動する以外に方法がありません。ただひたすら常識に従って「みんなと同じ」からハミ出さないようにしていても、その先に幸せが待っている可能性は非常に低いでしょう。そもそも幸せと常識には関係がないのですから。

「常識からみればズレているが、自分にとってはどうしても必要なこと」とか「周囲から見れば非常識に見えるかもしれないが、どうしてもやらなければいけないこと」とかが誰の人生にもあります。そこから目をそらして「みんなと同じ」にしがみつくのは正しいことではありません。数十年後にあの常識は何だったんだろう?なぜそんなものに従ってしまったのだろう?という気持ちにならないためには、自分の頭で考えて自分の意思で行動する以外に方法がありません。

あなたは、どう思いますか?

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(2014年3月10日「誰かが言わねば」より転載)