人命はなぜ尊いのか

残念ながら今日の世界では多くの人が、自分と同じものを食べ同じ価値観を持ち同じような生活を送る人にのみ敬意を持ちます。そして自分の理解の外側にいる他人を否定しようとするか意識的に無視します。
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すべての人命は等しく尊いということになっていますが、それはあくまでも建前の話にすぎません。心の奥底では誰しもが、本当に尊い思っているのは自分自身の命だけで、会ったこともない他人の命を同じくらい尊いと思ってはいません。

それでもやはり世の中には「人命とは尊いものなのだ」という建前が必要になります。

お互いに人命は尊いということにしておくことによって「私はあなたを殺さないしあなたの命を尊いものとして扱うから、あなたも私を殺さないで私の命を尊いものとして扱ってください」という契約的なものが生まれます。

人命は尊いという建前を常識として社会全体で共有すると「私はすべての人の人命を尊いものとして扱うし、私の命もすべての人から尊いものとして扱ってもらえる」ということになります。本当に尊いと思っているかどうかとは関係なく、すべての人命は等しく尊いのだという建前を社会全体で共有することによって世の中の安全と安定が保たれているわけです。

何らかの理由(たとえば社会的に阻害されてしまったり、完全に自信を喪失してしまったり)で自分の命を尊いと思うことをやめてしまった人は一方的にこの契約関係から降りてしまいます。自分の命を尊いと思わなくなってしまった人は他人の命を尊いものとして扱うこともやめてしまうのです。そしてそういった人の一部は「死刑になりたかった」とか「誰でもよかった」というような一方的な動機であっさりと殺人を犯してしまいます。彼等は自分の命を尊いと思うことをやめてしまった時点で「人命は尊い」という常識からこぼれ落ちてしまったがために、常識では考えられないことを平気でやってのけてしまうわけです。

人命は尊いという建前を共有している人が心の奥底で本当に尊いと思っているのは自分の命だけなのですが、自分の命だけが尊くて自分以外の命は尊くないのだという意識を剥き出しにして生きる人はめったにいません。しかし不思議なもので自分達の命だけが尊くて自分達以外の命は尊くないのだという意識を剥き出しにして生きている人達や集団は世界にたくさんいます。一人だと何も主張できないが集団になれば何でも主張できる、そういう弱くてズルい人が少なくないということなのかもしれません。

選民意識を持っている集団や、排他的な宗教に属するグループなど、自分達と同じ属性を持った人の命だけを尊いと考える人達は自分達と異なる属性の人の命を尊いものとしては扱いません。そのためこういった人達はさしたる罪悪感を抱かずにテロや戦争の中で人命を奪います。

イスラム原理主義者はイスラム原理主義者以外の命を尊いものとして扱いませんし、ユダヤ人はパレスチナ人の命を尊いものとしては扱いません。ゴリゴリの民族主義者は他民族の命を尊いものとして扱いませんし、ゴリゴリの共産主義者は資本家の命を尊いものとして扱いません。中国の人々は自分達の文化に染まらないウイグル人の命をそれほど尊いものとしては扱いませんし、米国の人々は自由と民主主義という価値観を共有していない人達の命をそれほど尊いものとしては扱いません。

残念ながら今日の世界では多くの人が、自分と同じものを食べ同じ価値観を持ち同じような生活を送る人にのみ敬意を持ちます。そして自分の理解の外側にいる他人を否定しようとするか意識的に無視します。

世界には自分に理解できない何かを信じて生きている人たちが無数に存在しているという事実をすべての人が受け入れ、自分とは異なる属性を持った人たちとの間にもお互いの人命は尊いのだという建前を共有できた時に、初めて世界に平和が訪れるのではないでしょうか。その日はいつ訪れるのか?そんな日が本当に訪れるのか?それは私にも分かりませんが...

さて、あなたはどう思いますか?

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(2014年10月7日「誰かが言わねば」より転載)

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