やっぱり「編集者(=エディター)」は必要だ

自分が書いたものを世に出す前に、客観的に作品を読み、時には「本当にこれでいいの」と疑問を発し、「こうしたらどう?」と編集してくれる人、つまり編集者の役割を忘れてはいけないと思う。

ネットを使って、誰でもが情報を発信できる時代になったという。

紙媒体に主として書いてきた私も、自分のブログ「英国メディア・ウオッチ」やヤフー・ジャパンが昨秋に創設した「Yahoo!ニュース 個人」のサイトなどに、思ったことを綴っている。ゆくゆくは電子書籍も自己出版したいと思っている。

2008年から3年ほどは知人・友人に声をかけ、ニュースサイトの運営もしてみた(昨秋、終了)。

一つ分かったことは、自分で文章を作り、校正し、写真を調達して編集し、最終的にブログサイトに載せる一連の作業は、かなりしんどいということである。名前や日付、数字などの事実確認、表現のブラッシュアップ、画面上に出たときに不具合はないかの確認など、やることが非常に多い。

この「1人あるいはなるべく少人数で原稿を作成・掲載する」動きは、ここ数年、英国の新聞界でも進行中だ。

日本同様、紙媒体の発行部数が下落し、広告収入も減っているため、ここ何年か編集部員の人減らしが常態化している。編集スタッフの代わりに導入されているのは、人手をかけなくてもニュースの作成ができるような紙面・ウェブサイトの構成だ。ひな型が最初にできていて、記者が原稿を流し込めば、ぴったり収まるようになっている。人手をテクノロジーで補っているわけだ。

入手したネタをなるべく早くウェブサイトに出すために、記者が原稿を書いた後は、1人のデスクが目を通し、その後すぐにサイト上に掲載するのも珍しくなくなった。新聞と言うと情報の正確さや信憑性に人は大きな信頼を置くが、意外と少人数で(つまり、この場合はたった2人が見ただけで)作られていたりする。

今、日本では、アマゾンの電子書籍端末機キンドル用の自己出版(キンドル・ダイレクト・パブリッシング=KDP)が次第に人気となっている。さまざまな方が自分の体験をネット上で公開している。

自分で書くブログやKDPによる自己出版が広がるにつれて、「いや、待てよ」という思いがする。

というのも、自分が書いたものを世に出す前に、客観的に作品を読み、時には「本当にこれでいいの」と疑問を発し、「こうしたらどう?」と編集してくれる人、つまり編集者の役割を忘れてはいけないと思うからだ。

ささっと時間をかけずに書いて、名文を作れる人もいる。でも、たいがいの場合は、一定の時間をかけて考えて、書いてみて、その後に第三者の目と手を通したもののほうが、より質が高くなる。

これだけたくさんの人がありとあらゆることを発信する中、より質の高いものを出せば、後々まで人の心に強く残る。自分が読み手の場合でも、できればより質の高い、読みがいのあるものを読みたい――時間は限られているのだから。

注意したいのは、第三者の客観的な目と手を入れるのは、あなたが書くものが劣っているから、あるいはあなたが初心者だから必要だ、というのではない。誰にとっても深みを出すためには必須だと私は思っている。

あえて言えば、著名な作家にとってもである。やや余談になるが、先日、数人の友人たち(新聞や雑誌の編集関係者)と夕食をともにし、超有名・人気作家の話になった。ほぼ全員がこの作家のファンだった。ところが、何人かが怒っている。なぜかと聞くと、「担当の編集者が何もしていないのが分かるから」だという。何故そうなったのかは分からない、第一、「編集者が何もしていない」というのさえ、独断と偏見なのだ。一つの推測は、「本を出せばすぐに売れるので、編集者が何も言えなくなったのではないか」。あくまでも酒の席での会話であるが、ほかの人気作家の例でも思い当たることがなきにしもあらずだった。

この話には終わりがなく、これからも続くが、誰でも情報を発信できる時代になったからこそ、「編集者・第三者との共同作業」を楽しみたいと思うこの頃である。

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