夫婦同姓の強制にみる同一化圧力の気持ち悪さ

「第二次夫婦別姓訴訟」、あきらめずに開始
自治労

選択的夫婦別姓制度の実現を求め、第二次別姓訴訟を起こした弁護士らが、3月14日に集会を開いた。

「第二次夫婦別姓訴訟」、あきらめずに開始

夫婦同姓しか認めない民法を違憲としないという、衝撃の判決を最高裁が出してから1年あまり。あきらめない人たちが、裁判所の分厚い壁を破るための「第二次夫婦別姓訴訟」に踏み出した。自分は夫婦同姓でオッケーだから、あるいは独身だから、自分には関係ない問題だと思っている人も多いかもしれない。だが、夫婦同姓の強制はどう考えても理屈が通らない。そんな理不尽がまかり通る社会だということは、いつかその理不尽が、形を変えて自分を含むほかの人々にも降りかかってくるかもしれない社会だということだ。

3月14日、東京と広島の3か所の家庭裁判所に、4組の事実婚夫婦が「夫婦別氏の婚姻届の受理を求める審判の申し立て」をした。同日、弁護団が東京で集会を開き、申立人のうち3人が出席した。なお、今回は家裁に対する申し立てという形を取っているので、別姓を求める人たちは原告ではなく「申立人」という。

申立人の一人で東京都八王子市に住む40代の男性は、大学に勤務する研究者で事実婚である。9年前に結婚式を挙げたが、婚姻届は出さなかった。娘が生まれる時、妻に手術が必要になった場合に備えて一時的に「ペーパー結婚」をし、実際、妻が手術をすることになったので、同意書を書く際に「ペーパー結婚」は役に立った。その後籍を抜いたが、妻がフルタイムの仕事からパート勤務になり、配偶者特別扶養控除の資格を得るため再び「ペーパー結婚」をした。今はまた事実婚だ。

同姓強制への「違和感」

なぜそんな面倒なことをしてまで別姓にこだわるのか。男性の発言で印象に残ったのは、「姓を変えても通称を使うのが常識かもしれないが、通称を使うのはどうしても違和感がある」という言葉だ。「違和感」は、別姓制度を求める人たちが共通して口にする言葉である。姓を変えることで自分が自分でなくなるような違和感、あるいは通称を使っていても「本当の姓」は別にあることを意識せざるをえない違和感。

「違和感」という言葉は、ほかでも耳にする。たとえば、トランスジェンダーの人が自分の生物学的な性に対して持つ「違和感」だ。ほとんどの人は、生まれ持った性と自分の感覚との間にずれはない。だが、トランスジェンダーの人たちはそこに違和感を持つ。この問題では2003年に性同一性障害特例法ができ、性別転換手術が認められるようになった。健康な身体に手術をすることを、この国は法律で認めている。それは、当事者が自分の身体に持つ違和感を、無視してはいけない個人の尊厳の一部、アイデンティティーの一部をなすものとして大事にしなければいけないと判断したからだ。

では、名前はどうなのか。名前こそ、アイデンティティーの重要な一部である。社会の一員として、様々な法制度の中で自分が立ち現れる時に、自分が望む固有の名前を使いたい。それは、誰を傷つけるわけでもない。しかも、まさにペーパー上の話である。大多数の人がそうするように、同姓を選ぶのももちろん自由である。だったら、選択的夫婦別姓制度を認めるのに何の不都合があるというのか。

理屈の通らない「家族の崩壊」論

不都合があると考える人は「家族の一体性の保持」を主張する。2015年の最高裁判決も、「家族を構成する個人が,同一の氏を称することにより家族という一つの集団を構成する一員であることを実感することに意義を見いだす考え方も理解できるところである」と、同姓の強制を肯定している。それは、14日の集会で元最高裁判事の泉徳治弁護士が指摘したように、「まず国家社会があり、構成体としての家族があり、個人はその一員なのだから、家族のあり方は社会が多数決で決める」という考え方であり、「憲法が個人の尊厳を第一に掲げたことを理解していない」と言わざるをえない。

しかも現に、事実婚の人たちの「家族の一体性」が十分に保持されていることは、当人たちが強調している通りである。通称使用だって、外から見たら「一体性」がないということになりかねないが、そんなことは起きずに多くの人が通称を使っている。「家族の崩壊」というが、名前が違うことが崩壊の原因になるなんて、どういう理屈でそうなるのか全くわからない。法律婚でも「家族の崩壊」が起きている家庭はいくらでもある。他人に同姓婚を強制したい人は、実は自分とパートナーとの関係に自信がなくて、別姓制度を認めるとあたかも自分自身の「夫婦の絆」が脅かされるように感じて不安になるのではないかと勘繰ってしまう。

法律で同姓を強制するのは日本だけ

私がここに書いたことは、これまでさんざん主張されてきたことでもある。集会では、犬伏由子慶応大学教授が「学会では選択的夫婦別姓を認めることでほぼ異論がない」と強調した。法制審が別姓婚を認める民法改正案を答申したのは1996年で、すでに20年以上たっている。法律で同姓を強制する国は世界中で日本だけだという。国連の女性差別撤廃委員会も、別姓を認めるよう日本政府に何度も勧告している。

さらに、そもそも法律婚や戸籍という制度自体に疑問を投げかける主張もある。フランスのように、事実婚のまま子どもを産み、それで何の不利益もない社会になった方がいいという考え方もあり、私自身はどちらかというとそちらにひかれるが、ここでは立ち入らない。

私が強調したいのは、日本は個人の尊厳やアイデンティティーを大切にしない社会だということが、夫婦別姓を認めようとしないことに端的に現れているということである。外国人差別にもそれは顕著に表れている。その同一化圧力が、私は気持ち悪い。他人のアイデンティティーを大切にしない人は、明確に意識しなくても自分は常に多数派に属していると感じているので、「尊厳が侵害される」という事態を想像できないのかもしれない。だが、「あなたと違う立場や考え方や感じ方の人がいる、それは認めなければいけない」ということを基本に、この社会はできている。そこを否定するのは全体主義への下り坂である。

(2018年3月20日自治労コラムより転載)

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