『地域包括ケアの課題と未来』編集雑感 (3): 小松秀樹「人口の変化と社会保障」を語る

日本では、合計特殊出生率が低い状態が長期間継続している。今後、一貫して出生数が減少し続ける。このため、20歳から64歳の現役世代が減少し続ける。

日本では、合計特殊出生率が低い状態が長期間継続している。今後、一貫して出生数が減少し続ける。このため、20歳から64歳の現役世代が減少し続ける。

問題は社会保障である。人口の大きい団塊世代、団塊ジュニア世代が高齢化していく。65歳以上の高齢者人口がピークになる2042年には、1人あたりの負担を固定して単純計算すると、高齢者1人あたりの社会保障給付が2010年の3分の1程度になる。2057年には後期高齢者人口が前期高齢者の2倍を超え、状況はさらに悪化する。社会保障制度に頼る人がいる状態で、給付が減らされると、適応できない人が増えてくる。対応を誤ると餓死が日常的現象になる可能性がある。

近年、「2025年問題」という言葉が使われているが、2025年に問題が生じる、あるいは、2025年に最悪の状態になり、その後改善されるという誤解を与えかねない。2025年は通過点にすぎず、状況はその後も悪化し続ける。筆者が直接見聞した限りでは、中央官庁のキャリアは、国立社会保障・人口問題研究所の推計が示す絶望的世界を正しく認識している。しかし、行政もメディアも国民に正直に伝えていない。

はたして、国立社会保障・人口問題研究所の推計通りに事が運ぶのだろうか。危機が大きければ社会の側に対応が生じ、未来予測の前提が崩れる。グンター・トイブナーは

「社会科学においては、将来の出来事の理論的予測はあまり流行らない。まして、予測どおりの出来事が起こるのは稀だというのが、普通である。」(グローバル化時代における法の役割変化『グローバル化と法』マルチュケ、村上淳一編)

と述べている。

筆者は「人口の変化と社会保障」の中で、以下の結論を述べた。

「将来の現役世代を増やし、その収入を増やさない限り、日本の社会保障を維持するのは困難である。出生率が向上しなければ、大規模な移民を受け入れざるを得ない。移民してもらうとすれば、収入の少ない単純労働者ではなく、高学歴層でなければ、社会保障を支えるのに役立たない。起業能力のある人材が欲しいが、移民する側にとって、日本に魅力があるかどうか分からない。」

上記結論は、国民国家の枠組みにとらわれ過ぎていたと反省している。危機的状況になったとき、日本の国民国家としての在り様に変化が生じる可能性がある。危機が大きいだけに、国家と日本人の根幹部分に変化がなければ対応できない。

国民国家とは、現在の日本人が想起する「普通の国」のことである。固有の法体系によって統治され、国土、官僚群、常備軍を持ち、国民は国籍を有する。他の国家に対して利己的に振る舞う。国民の同質性を求める考え方をとることが多く、複数の民族を抱える国で、紛争の原因となった。国民国家につながる主権国家体制は30年戦争の後、1648年、ウェストファリア条約によってもたらされた。国民国家とは、歴史的には比較的新しく、きわめて人工的なものである。未来永劫継続するとは限らない。

内田樹は、「国民国家としての日本」が解体過程に入ったとして以下のように主張した。http://blog.tatsuru.com/2013/05/08_1230.php

国民国家とは「国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である」はずが、政府がグローバル企業を国民より優先するようになった。「日本企業」を経済戦争の担い手にしたて、「どうすれば日本は勝てるのか?」と執拗に問いたてる。企業の利益を増やすための環境コスト、製造コスト、流通コスト、人材育成コストを国家に支払わせようとする。実は、「日本企業」はグローバル企業であり、「企業利益の増大=国益の増大」という等式は虚偽である。現状は国民国家の「末期」のかたちである。

実際、大企業が儲かっていても、地方は疲弊している。地方を支えてきた公共事業は、財政赤字と過疎化によって激減した。製造業の海外移転が進んだため、地方で工場が閉鎖された。製造業が日本に残るには、付加価値の高い製品を作るか、あるいは、徹底した機械化で人員を削減しなければならない。日本では技能職より、技術職、新規ビジネス開発者、管理的事務職の役割が相対的に大きくなった。いずれも、大都市あるいは外国の住民である。大企業全体として利益が積み上がっているが、高い報酬を受け取ることのできる日本人の数は多くない。地方では雇用が失われ、過疎化と貧困化が進行している。

内田の議論には国民国家への期待が若干残るが、宮崎学は日本型国民国家そのものに現在の苦境の原因があるとする(『法と掟』洋泉社)。日本では、明治維新後、政府が、農村や都市にみられた自治組織、職能団体などの個別社会の自治を破壊し、全体社会として統合した。宮崎は、華僑の相互扶助組織と個人の強さ、たくましさを高く評価する。宮崎の結論部分を引用する。

「それぞれの国民が国民国家単位でどうまとまって行動していくか、ということよりも、それぞれの個々人が個人としてアジアの中で、あるいは世界の中で、どう独立して行動していくのか、ということのほうが、まず優先されなければならない。いま国民国家の枠が日本の社会を全体社会一本にまとめあげることによって、個別社会の、したがってまた個人の活力を発揮することを妨げている。個人と個別社会をこの枠から解放することが、1990年代以降に現れた時代の変貌の中で、最も重要な課題になっているのだ。」

明治維新後の個別社会の破壊は、中間団体を旧体制として否定し、徹底して破壊したフランス革命に似ている。フランス革命は、旧体制を嫌悪したが、旧体制のもたらした行政的中央集権をさらに強めた。旧体制以上に、思考が画一化され、多様性と自由を奪った。トクビルの記述は、日本の衰退に重なる。

「ある権威があるとする。それは、わたくしの歓楽が平穏に満たされるのを見張っており、わたくしの行く先々を先廻りして、わたくしが心配しないでもすむようにすべての危険をまぬがれるようにしてくれる。この権威はこのようにしてわたくしが通過する途上でどのような小さなとげも除いてくれると同時に、わたしの生活の絶対的な主人でもある。そしてまた、この権威はそれが衰えるときにはその周囲ですべてのものが衰え、それが眠るときにはすべてのものが眠り、それが亡びるならばすべてのものが死滅するにちがいないほどに、それが運動と生存とを独占している。」(『アメリカの民主政治』講談社学術文庫)

社会の変化は、その社会で生活している人たちが考えるより早く、激しい。現在の日本がこのまま維持されることがないことは間違いない。

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