アジアの途上国で乳がんを診る

彼女らは最後の望みを託してここにきているのだ。

「人間の命というのはお金で左右される」

これは当たり前のことだ。しかし何となく理解はできても、到底納得できるものではないという日本人は多い。

医療というのが、損得なしの福祉の一部だという建前は別として、完全に産業、言わば経済の一部に取り込まれてしまった昨今、国民皆保険という借金で成り立っている制度が、このまま維持されるわけがない。私にはよく分かる。誰もが安い費用で医療を享受できているのは、地下からお金の元が沸いてくるような国々を除けば、本当は異常なことなのだ。さらにそれが大きな借金で回っているという事実には、眉をひそめずにはいられない。

そして恐ろしいのは、誰もがそれに気づかず、ましてや感謝をすることなどなく、まだまだ足りない、もっともっと、とそれへの要求を上塗りしていることだ。

アジアの途上国には、いまだに税金を上手く取る仕組みもない。最近までの傾向では、取れるほどの人々が少なかったと言うべきだろうか。そのような中で、入っていくる以上の還元ができるわけがない。

25年前、ミャンマーの人口は日本の約半分弱、GDPは日本の100分の1以下、国家予算の1%しか福祉医療にまわっていなかった。結果、医療は壊滅的で、惨憺たる有様。

患者たちは針一本、綿1つから自己負担を強いられる。

そこへ放り込まれた私は、日本人が掲げる理想とは明らかに異なる現実と向き合わなければならなかった。

あれから25年、現実はそれほどには改善していない。

昨日はカンボジアでも2件乳がんの手術を行った。

乳房を全摘出し、リンパ節を郭清する。

本来はこれに、化学療法やホルモン療法を加えながら治療することになる。

しかし、治療はこれで終了する。

ここでは手術は無料で提供できるが、薬は提供できていない。

彼女らは高価な薬を、自力でどこかで購入しなければならない。

もちろん、多くの人々にはその力はない。

だから近い将来、そのほとんどは死んでいくこととなる。

乳がんは放置しておくと皮膚を突き破る。がん細胞は乳管や小葉の中で"ザクロの実"のように増殖し、やがて外へ向かって噴火する。

昔は日本でもよく見かけたはずだ。

大体このくらいに、あるいはそれ以上のかなりの大きさになってから、彼女らは治療に来る。

予後は悪い。

ここに来た時には、既に何も出来ないような人もいる。

乳がんが見つかった場合、その事実を家族へ伝える。もちろん本人もある程度は理解をしているが、国の慣習から、改めて本人には話さない事も多い。

そのような時、患者の中には、病院から梃子でも動かない人がいる。

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彼女らは最後の望みを託してここにきているのだ。

ここから何もせずに帰ることは、すなわち死を受け入れることとなってしまうからだ。

スタッフが時間を割き、ゆっくり患者の訴えを聞きながら、励まして、慰めて彼女らはやがて帰路へとつく。

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そんな患者たちを何人も何人も手術してきた。

せめて手術だけでもしてほしいと懇願される。

だから、手術をする。

もう長くはないかもしれない彼女らの人生に、ほんの少しだけでも希望を灯したいといつも思っている。

それがたとえ小さな灯火でも、人生、ないよりはあったほうがいい。

死のその瞬間まで、少しだけ、ほんの少しだけでも、希望はあったほうがいい。

だから手術をするのだ。

日本でも毎年多くの女性が亡くなるこの乳がんという病は、アジアのミャンマーやカンボジアではいまだに不治の病だ。

ひとつだけ慰められることがあるとすれば、彼女らは最期、きれいに死んでいくのだ。

抗がん剤を打てない彼女らは、抗がん剤によって苦しむことはない。

髪の毛も抜けず、下痢もせず、感染もほとんど起こさない。

弱った体に高カロリー栄養の点滴もされることはない。

ただ病気が進行し、弱り、ご飯が食べれなくなった時、実にあっさりと死んでいく。

家族も長い闘病に付き合わされることもなく、経済的な負担をかけることもほとんどなく死んでいく。

家族も必要以上に苦しまず、本人の苦しみの期間は明らかに短い。

その死に様はきれいなものだ。

この姿を見ると、最期まで鞭を打たれて死んでいかなければならない日本人と、彼女らと、どちらが幸せなのか分からなくなってしまう。

神様は、せめて彼女らの最期が、安らかで美しいものであるという尊厳を与えたような気がする。

明日はミャンマーに移動する。

やはり乳がんの患者は待っている。

命を救えない手術をすることもある。

救えないと分かりながらする手術もある。

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それでも彼女らは私の到着を待ってくれている。

明日も彼女らの心に少しでも明かりを灯せるだろうか?

たとえ体は救えなくても、少しくらい心は救えるだろうか?

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