人間には「拘束(或いは、緊張)と開放」という時間のバランスが必要だと思う。
そして必ず順番も、「緊張 ⇒ 開放」の順番だと思っている。
これは誰でも経験的に、直感的に理解できると思う。
人は弱さゆえ緊張を嫌い、開放を望む。
これが最初から開放の状態を持ち込むと惰性や怠惰という状態になってしまう。
緊張とは、ある場面では抑圧であり、弾圧であり、強制である。
たとえば、
飢餓があれば、食の有り難さを知る。
極度の弾圧、抑圧があれば、本当の自由を知ることができる。
有名な「夜と霧」の著者は第二次世界大戦時ナチスの死と隣り合わせのアウシュビッツ収容所で本当の自由とは何かということに気付いたと回想している。
肉体もそのようにできている。
高く、あるいは遠くへ飛びたければ、屈曲という肉体的緊張をまず必要とし、その後、その緊張を進展という開放状態にもっていかなければならない。
何の話かというと、実は今回は教育の話をしたいのだ。
私は子育てであれ、学校教育であれ、まずはある種の拘束状態を子どもに与えなければならないと思っている。
特に初等教育は、まず社会のルールを少しづつ教えていく時期なのだが、この時期にある種の強制が必要になる。
算数をする。国語をする。音楽をする。子どもたちが嫌がろうと、まずは強制していかなければならない。その強制は、極度であれば折れ曲がりすぎて膝が伸びなければ飛べないように、子どもにとって適度なもの、もっというと飛び上がることができるギリギリのところまでいけると効果は最大になる。ここが教師の能力の問題になってくる。上手く誘導する教師はいい教師ということだ。
例えば子どもに、算数を過度に強制すると、子どもは算数自体を拒否するようになる。だめ教師はこれをしてしまう。
さらに難しいのは、中学校の教育だ。ここまで義務になっているから、必ず強制されることになる。
中学の各教科は、それぞれにいろいろな学問の基礎を学ぶのでどれも一度は強制をしたほうがいい。向いていないことが判明したら、高校にいかないという選択肢も与えられている。
しかし、もし一度も強制しなければおそらく、多くの子どもたちはその課題から逃れ、その学問的素養から生まれる様々な利益を、生涯にわたって失うことになるだろう。
だから強制的にそれを一度は学ばせる必要がある。
現在の日本の問題点は、勉強が嫌になった子どもに、高等学校で教育を受けることを社会が暗黙に強制しているところにある。その目的がいい大学に入るとか、いい就職をするためとかいうのだから情けない。
学問が過度の強制になっていいことは一つもない。
そのような子どもたちには、中学校を終わると高校や大学など行かなくても別の能力開発のための道を作ることも大切なことだと、いつか社会が変わってくれる日を待っている。
一度、枠に押し込めることは本当に大切な要件で、私は海外の医療現場でも必ずこの手順を踏む。
まずは正しいと信じるやり方で、医療者たちに我流や経験を一旦捨ててもらい、私のやり方、方法に強制的に従ってもらう。おそらく心の中ではかなり反発もするし、かなりのストレスを抱える人も多いが、必ず強制する。
なぜならばこれこそが、その後の医療者たちの飛躍を生むからだ。
言い方を変えれば、私のやり方を習得するということは、私の人生を自分の一部にしたということだ。
ある学問を学ぶということは、人類の歴史の一部を自分のものにしたのと同じだ。
そしてやがて私のやり方から開放されたとき、過去の自分の経験と今私から奪い取った経験が融合され、自分自身の能力がさらに進化し、新しい自分を手に入れることができる。
そして人生はそこからが勝負になる。
さらにその先にある全く新しい時間に自分を進め、何かを生み出していくという段階になる。
自分だけのオリジナルなものを生み出すということだ。
それはまた、ある学問をまず強要され、学び終わったら、そこから新しい理論や発見をしていく過程と似ている。
こういう階梯をかつては、「守・破・離」と呼んだわけだ。
守というのは高く飛ぶために、膝を屈曲すること。
破というのは極限一歩手前まで曲がった膝を伸ばしはじめ、元の高さまで膝が伸びること。
離というのは元の高さより高く飛び上がること。
小学・中学時代の強制は、人生に守を与えることだ。ここがない人生は、決して高くは飛べない。
必ず学校教育が必要なわけではないが、なければそれに変わる何かを用意しなければならない。
その理屈でいうと、子どもを叱る教育も大切だということだ。はじめからほめて育てるやり方は、いきなり子どもに飛び上がれといっているようなものだ。しっかり叱り、いいタイミングで褒めまくる。
これが守・破・離に則ったやり方だ。
子どもは賢いので、親の顔色ばかり見ている、或いは親に気を使っている、或いは親に変に洗脳されている子ども以外は、何かに付けて親から与えられた習い事も無理やりやらされている、親がやらせたがっているとちゃんと理解している。
うちの小学生の子どもたちも堂々とそのように文句を言うのだ。
しかしこれは立派なことだ。少なくとも私はそのように感心したのだ。
しかし今、子どもたちには、君たちのいう事、感じていることは全くその通りだが、今はここに書いてきた理由により、少なくとも小学生のうちは強制しますと宣言している。
守の状態は苦しいものだ。体重を支えながら膝を折れ曲げる動作はストレスフルなのだ。
(親の役目はここまで。)
どこでその重さから開放されるのか?
それはまさに折り曲げ始めたゼロ点を通過した瞬間からだ。
そのことも知っておいたほうがいい。
ゼロ点を過ぎればできるだけ脱力したほうが高く飛べる。
そのことも知っておいたほうがいい。
要するに、親は干渉したりしゃしゃり出ない方がいいということだ。
ゼロ点というのは人生でいうといつになるのか?
日本という社会は、大学生になっても、社会人になっても親が出てきたりする。
それはわが子の成長を阻害する行動だと思ったほうがいい。
社会人の子どもが海外に医療ボランティアに行きたいという。
そして、親が反対しています、とか。親が帰って来い、とか。いい始める。
心配するのは分かるが、親は基本的に子どもが死ぬまで生き続け、面倒はみれないのだ。
だから、そんな親の発言は子どもの人生の発展を上から押さえてつけているようなものだと思う。
ゼロ点というのはいつなのか?もう一度しっかり考えてみたい。
中学卒業したときなのか?
高校卒業か?大学卒業か?
それとも社会人になった時なのか?
私は結構、早い時期だと思っている。