途上国で医療を発展させる

国際的な医療協力をすると必ずぶつかる壁がある。それは、医療活動、すなわち患者を治療すること自体がこの世に存在していない、あるいはそれに近い状況にあるという現実だ。

いつも活動をしていて、私たちがやっている活動は何かしら型がきまっているような気がしてならない。それは誰かから織り込まれたものではなかろうか?という不安感である。国際医療活動というのはこういうものだという織り込み。

国際的な医療協力をすると必ずぶつかる壁がある。それは、医療活動、すなわち患者を治療すること自体がこの世に存在していない、あるいはそれに近い状況にあるという現実だ。大災害などの緊急救援を除いては、ということであるが。

アメリカの医者が勝手に日本で医療を出来ないように、日本の医者が勝手に他国で医療が出来ないようになっている。だからそこに如何に困っている他国の患者たちがいても、勝手に乗り込んで行って医療を施すことなどできない。

私たちもNGOとして活動国ではちゃんと登録し、現地政府とこういうルールに則って医療活動をこういう形で行いますと契約をしてから医療活動を行っている。

話を戻すと、一般的に日本にある医療系を名乗る団体が他国で行っているのは患者を治療する医療活動ではない。

一般の人たちは医療活動というと、患者を治すということを思い浮かべるが、現実はそうではないのだ。多くの団体が行っているのは、公衆衛生といわれる分野の、予防活動や啓蒙活動になる。

多くの医療者が、学生の頃、夢見ているのは海外の貧しい人たちに医療を行う自分自身の姿であるし、そういう活動を志し、医療の道に入ったものも少なからずいる。ところが、すでに学生のうちにそういう世界がほとんどないという現実のを知り、ここで彼らは医療活動を諦め、あるいは方向転換して公衆衛生を語り始め、目指すことになる。その行き着く先が、WHOなどの国際機関なのかもしれない。

医療活動を出来ないことを悟った人間が、自分の進むべき道がはじめからこのすばらしく価値のある分野しかなかったかのような、あるいはそこに進むのが必然だったような自己肯定を始めるのだ。

私からすれば、何事も経験なくして本当の良さも悪さも実感できないと自分の人生が教えてくれているのだが。

学生たちに、如何に公衆衛生が途上国では必要で、意義があるのかを何度も聞かされてきたが、私に言わせれば、

「医療のほうがもっと必要だろう!」と現実を知っているだけに思ってしまう。10年や20年かけてやらないといけないことがあるのは当たり前で、今すぐにやらないといけないことのほうが当たり前に多いのが途上国の現実だと思う。

どっちが必要だという話ではないが、私が20年以上の途上国医療から得た知見では、公衆衛生だけ発展させようとしても成果はあまり期待できないということだ。医療や衛生というのは本質的には何によって発展するかという思考を飛び越えてしまうと、方法論やアプローチが変わってくる。

私は医療を発展させる最も大きな絶対的因子は何かといわれれば、自信を持ってこう答えるだろう。「医療や衛生を発展させたければ、経済を発展させるのが最も効果的・効率的である!」

要するに、経済が発展しなければ医療は発展しにくく、衛生観念も発展しにくいということだ。

その国の医療を発展させるのは医療界の仕事というより、経済界の仕事であり、政治はそれを妨害しないようにしなければならない。

ミャンマー・カンボジア・ラオスの田舎の人が医療にかかるには、まず、雨季にはぬかるんで進めない泥の道を5時間も進んで来なけれなならない。自分で歩けない患者だと、牛車や車の荷台に乗せられて数時間かけ、ようやく田舎の幹線道路に出る。そこでまたいつくるか分からない車やバスに乗り換えて、数時間ガタガタ道を走る。

医療を届けたければ、そういうインフラの整備が必要になる。これは、国の仕事、経済が悪い国ではその整備が遅れるのだ。折角、病院にたどり着いても医者もいなければ薬もろくにない。病院を作るにも医者を育てるにもお金がかかるのだ。

流通が成り立っていないのだ。今日なくなった薬は、次はいつ補充されるかは分からない。

経済的に満たされ始めると、人は健康に意識が向かい始める。健康になるために自発的に栄養に気を配り、衛生的な水を飲み、手を洗うようになる。私的にはこの当りが衛生活動の最もいいタイミングだと思ってはいるのだが。

何でこんなに公衆衛生分野が大切なのだと、大声で騒がれるのかというとやっぱりそれに関与している人間が多いからかもしれない。学生たちもその影響をまともに受けてオウム返しのように同じように理屈を述べる。

実はこの分野は大量のお金が流れ込む分野なのだという側面を見逃してはいけない。数千万、数億の規模の政府や国連機関のプロジェクトがウヨウヨあるのだ。

ここに多くの団体が群がっているのが現状だ。ほとんどこの補助金のみで運営している団体もあるほどだ。国際機関や政府の関連機関で働く人間の待遇や給与を一般人が聞いたら、びっくりすると思う。

一方、私たちが行っているような患者を直接治療するという行為には通常、このようなお金は用意されることがない。そのためほとんどは、独自に寄付を集めそれを財源とするしかないのだ。

よく大きな機関と医療活動の支援の話になったときに言われることがある。

「だって、医療活動は患者が死ぬでしょ?責任問題がね、、、。」

医療は患者が死ぬ分野ですよね?と聞き返すわけでもないが、公衆衛生をやっている人たちがもしその辺の意識が欠落していればかなり危険だというしかない。

自分たちが多くの人のいのちを一気に扱っている自覚なく行われた活動で、もしやり方がまずく、1000人が余計に亡くなっても、気付きもせず、その自覚もないということが当たり前に起こるのだ。

責任問題を恐れる人は、医療には向いていない。

人のいのちを預かっている自覚に欠ける人は、公衆衛生にも進むべきでない。医療というのはいずれにしろ、人のいのちを預かっているという当たり前の自覚を要求される仕事なのだ。

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