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2018年07月10日 09時13分 JST | 更新 2018年07月10日 09時13分 JST

「オウムを知らない若者たち」にどう伝えるべきなのか?

今となっては絶妙すぎるタイミングに空恐ろしくなる。

麻原ら死刑執行の前日、サリン事件の映像作品を制作したゼミの学生を取材する新聞記者

今となっては絶妙すぎるタイミングに空恐ろしくなる。

 死刑執行の前の日の夕刻、「彼」は私の大学にやってきた。

 地下鉄サリン事件で夫を失った高橋シズヱさんを取材してドキュメンタリーを制作し、比較的評判が良かったゼミの教え子の女子3人に話を聞きたいのだという。彼は新聞社の社会部の記者だ。電話がかかってきたのは3、4日前だったと記憶している。3人がちょうどゼミの授業で揃うタイミングの木曜日に大学に来てもらったが、翌日の金曜日の午前中に死刑が執行されてしまったので、あまりのタイミングの合致に呆然とした。

 その取材の成果は今日(7日)の夕刊の記事になった。

オウム事件 学生が遺族ドキュメンタリー 「背景」教訓に(毎日新聞)

(前略)

上智大3年、津田真由子さん(20)は昨年夏、地下鉄サリン事件の遺族、高橋シズヱさん(71)のドキュメンタリーを制作した。津田さんは「私たちにとっては前の世紀の事件。テレビで見た『変な歌を歌う宗教』ぐらいにしか意識していなくて、最初は事件が非現実的に思えた」と制作当初の思いを振り返る。

 制作は、同級生の栗原海柚(みゆ)さん(21)、向島桜さん(20)と取り組んだ。オウム事件について、栗原さんは「教科書に載っている昔の事件」、向島さんも「架空の出来事のように感じる学生は多いはず」と印象を語る。テロといえば、中東など海外の出来事と感じてしまうという。

出典:毎日新聞デジタル

 たまたま、3人の学生が制作したドキュメンタリーが映像コンクールに入賞するなどして評判になったことやこの記者ならずとも、安倍政権が「平成」が終わる前にオウムの死刑囚を処刑して次の元号まで禍根を遺したくない意向だとする「推論」を元に記者たちが動き始めていて、この3人は学生としては珍しいほどマスコミ取材を集中的に受けることになった。

 ところが、地下鉄サリン事件遺族の会代表世話人・高橋シズヱさんが3人にはかなり心を開いてくれてせっかく長期間、独自に取材を続けていたにもかかわらず、マスコミ各社が「今の若者」というだけの視点でこの3人を取材対象にしていく様子を見ていると、今のジャーナリズムの「頼りなさ」が浮かび上がってきた。3人は「今どきの若者」にしては比較的しっかりした学生たちとはいえるが、なぜ彼女らがいつも取材の対象になるのか。同じような質問ばかり。他に「若者」はいないのか。他の切り口はないのか、と考えてしまう。

 この毎日新聞の記事を見てみよう。

(中略)

 取材を通じて、3人は事件の恐ろしさとともに、若い世代の危うさを感じたという。理由の一つと考えるのが、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の普及だ。

 津田さんは言う。「私たちはツイッターなどで常に友達とつながろうとしているが、そのつながりは強くはなくて、関係が切れたり、トラブルが起きたりする。そうした問題が起きると孤立感は深くなる」。向島さんも「人生に空虚感を抱える学生は多い。カルト団体でも、自分を受け入れてくれると思えば、入ってしまう子はいるだろう」と想像する。

 「事件でたくさんの被害者が出たことをこれからも忘れてはいけない」。3人は口をそろえた。

出典:毎日新聞デジタル

 字数の制限もあったのだろう。

 論旨が必ずしも明快とは言いがたく、何を伝えようとした記事なのか焦点が定まらない。

 (たぶん)この記事が伝えようとしていることはオウム事件の頃と比べても若者同士のつながりはもっと希薄な時代になっていてSNSによるつながりに依存する傾向が強まっている。そんな中で空虚感や孤立感を抱えやすくなっている。だから、オウム事件の頃以上に「今」という時代はずっと危険でもっと真剣に対策を考えないと大変なのだ、ということを言いたかった記事なのだと思う。

 そういう問題意識があるなら、もっとコンパクトにそう言えばよかったと思う。そうならなかったのは私の学生たちがあまりそうした問題意識が強くなかったせいかもしれない。彼女たちを指導している身としては、「期待はずれ」のコメントしか言葉に出来なったようで申し訳ない。

 

だが......よく考えれば、この記者に限ったことではない。他の社の記者も同様なのだ。

「地下鉄サリン事件から23年の集い」を手伝う学生たち

 今年3月17日、地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人である高橋シズヱさんが取り仕切る形で、「地下鉄サリン事件から23年の集い」という集会が東京都内で開かれた。

 その会場で高橋さんは、自身が撮影対象になった水島ゼミ生による「今日もあなたと一緒に。」という短いドキュメンタリー作品を冒頭で上映したのだ。日頃、オウム事件について、(今回の死刑執行のような)節目が来るたびに険しい顔をして「被害者遺族を代表して」テレビの画面に登場する高橋シズヱさん。

 でも、それ以外の「普通の主婦」や「妻」としての顔も持っている、という当たり前のことを3人の学生は気がついて作品にした。女子学生らが撮った瑞々しい映像や彼女らがつむいだナレーションの言葉とともに素直に表現されていたのが、このドキュメンタリーだ。いくつかのコンクールで賞を受けていて、たとえばTBSが主催する第19回「デジコン6」にも入賞して映像が公開されているのでURLを貼りつけておく。「JAPAN Live Action!」という賞なので以下のURLをコピー&ペーストして視聴してほしい。

http://www.tbs.co.jp/digicon/19th/winning/regional.html

 

高橋シズヱさんがマスコミ各社が集まる集会で学生の映像作品を上映したせいもあるのだろう。

 3人に対して取材攻勢が始まっていく。作品の一部が使われる形で3人のインタビューが編集されて、NHKの「ニュース7」(3月17日)や「ニュースウォッチ9」(3月20日)の特集として放送された。同じ局でありながら、学生のインタビューは別々に取材の申し込みが行われ、対応に追われたほか、新聞社の取材も3月17日の集会当日だけでなく、その前や後にも行われ、記事になった。

 だが、どれもニュースとしてはまったくと言っていいほど、「同じ目線」なのだ。

 「オウム事件の後に生まれた世代の若者がオウムの事件についてどう考えるのか」だ。3人が質問されるのを傍らで聞いていると、どの記者も同じような質問を繰り返していた。

3人は、読売新聞でも正月明けの1月3日の社会面で比較的大きな記事で取り上げられた

読売新聞による取材風景(2017年12月)

悲劇 私も伝える

中見出しが

地下鉄サリン 遺族の苦悩撮る

 作品の中身に触れつつ、最後はドキュメンタリーを制作した学生たちが「高橋さんと語り合った若者として、同世代、若い人に伝える責任がある」と意気込んでいるという内容で締めくくられる。

 いや、3人が無責任な若者たちだなどと言いたいのではない。むしろその逆といっていい。

 3人の声や作品を伝えるマスコミの無責任さや安易さが私には気になる。

 

「若者」に丸投げして、責任を負わせるような安易さが匂ってくるのだ。

 学生たちの言葉がテレビのニュースだったらせいぜい数十秒の言葉で、新聞だったらせいぜい2、3行の言葉で「切り取られてしまう」ことへの釈然としない思いがある。彼女たちは少なくとも数ヶ月にわたって高橋シズヱさんという人に何度か会って「取材」をしたのだ。人間としての疑問を彼女にぶつけてきたのだ。それが、わずか数十秒のわかったような言葉で切り取られることへの違和感。

 私自身も少し前まではそうした刹那的とでもいうべきテレビ報道の世界で生きてきた人間ではあるが、どうにもそんな形で処理されていく学生たちが気の毒な感情が自分の中で強まっていった。

 私は大学生の教育として、映像ドキュメンタリーを制作したら、その後で必ず文章のルポを書かせている。映像では必ずしも表現しきれなかったニュアンスがそこでは書けるはずだからだ。字数もなるべく長く書かせている。

その成果の一つとして、3月にゼミの学生たちが書いたルポ集を出版した。

「想像力欠如社会」(水島宏明・編著 水島ゼミ取材班・著)

出典:弘文堂 公式サイト

という本だが、高橋シズヱさんについてのドキュメンタリーも文章にした章については東洋経済オンラインで公開している。

地下鉄サリン事件「被害者の会代表」の真実 妻として犯罪被害者として...高橋さんの32年

(前略)

事件前からの知り合いも、そうでない人も。友達も、顔見知りも、ほとんどの人たちはシズヱさんを「地下鉄サリン事件の被害者」として接する。気づかわれるということは、事件のことを気にかけ、忘れないでいてくれているということ。その善意はありがたいと思う反面、それが彼女の居場所をどんどん減らしていた。

「電車とかにいると、あ......って顔をされて、目が合うとそらされるけど、ジロジロ見てきたりする人もいる。地下鉄サリンの......ってコソコソ言われることもある」という。「私はただの主婦なのに......。私は普通に、買い物とかお天気の話をしたいだけなのよ」、「松本サリンといえば河野さん、地下鉄サリンといえば高橋......なんで私なの、って」。

いつもより感情的に話すシズヱさんの姿を見て、私は「冷静に、言葉を選んで話す人」という第一印象の彼女を思い浮かべていた。初めて彼女の笑顔を見た時に感じたギャップ。その違和感の正体はこれだったのか。ごくごく普通の女性だったからこそ、事件後に様々な変化が起きざるを得なかったのだ。

出典:東洋経済オンライン

(後略)

 

周囲の人たちの「善意」によって住み慣れた地域からどんどん居場所を奪われていく高橋シズヱさんの苦悩が記されている。

 教師のゼミの学生に対するひいき目だと笑われるだろうが、取材者としての冷静な観察と共感的な眼差しが働いている見事な描写だと思う。約9000字の文章には「普通の主婦」である高橋シズヱさんの苦悩や被害者の会代表としての責任、北千住という地域への愛着や亡き夫への愛情などが描かれている。等身大の学生の感覚で記した文章には、事件をリアルタイムで体験していない世代ゆえの新鮮な眼差しがある。サリン事件の集会で、事件の被害者たちはPTSDで「気分が悪くなる」人への配慮で会場には別室が用意されているということも当日の高橋さんの言動を観察していてはっと気がつく。普通は新聞記事などで、みんなわかっていて当然だとされる点なので、こうした記述は見られないのが通常だ。

 

こうした学生たちのオウム事件に対する眼差しに比べると、プロであるはずのテレビや新聞の記者たちはどうなのだろう。

  若い世代に関しては、実はどう伝えていいのか記者たちは自信をなくしているのではないかと私は感じる。

 オウムの事件について、逃走犯の逮捕、裁判の終結やら死刑囚の処刑などの節目が訪れるたびに「事件の教訓」や「今の世代に伝えるべきこと」を意識するばかりで、過去を振り返ること以上に何かを知らされるような記事を読むことはほとんどない。だからなのか、たまたま学生が事件に関連するドキュメンタリーを制作したことはこれ幸いとばかり、次から次へと取材が大学生に押し寄せてくる。

 年明けの読売新聞の記事は、東京五輪前にテロ対策はどうなっているのかという視点だった。今回の毎日新聞は(字数が少なくて、全体として意味不明のきらいはあったが)、若者の孤立が進んでいるようだ(だから事件を忘れてはいけない)という視点だった。いずれにしても取材を通して何かを発見してやろうという意欲的なものではなく、むしろ自分が伝えたい切り口や視点のために都合いいコメントを求めただけ、という感じの取材だった。

 たぶん、そこにこそ、新聞が(というかテレビも)報道としてダメな理由がある。

読んでいても予定調和なのだ。

 予め流れをつくって、その流れの中でだけ「取材対象者」を登場させる。それでは、新鮮な取材などは期待できない。もちろん、そこには字数の限界や放送時間の限界というものがあるのだろう。それでも、もっと格闘してほしいと思うのだ。

 オウムの教祖らの死刑が執行された昨日から今日にかけての新聞やテレビの報道は、若い世代に教訓を伝えていこうという締めくくり方をするニュースは各社共通だったと言っていい。ただ、肝心の内容が実在する「若者たち」に響くものだったのかというと、そうだったとは言いがたい。上記の学生たちにも聞いてみたが、「若者へのメッセージは伝わってこなかった」というのが感想だ。各社とも江川紹子さんを筆頭に識者の声を並べて、なぜ今というタイミングで執行したのかという(政治状況などの)解説や今もオウムの分派が無視できないほどの会員数を誇っていることを示す一方で、今の時代とオウムの時代との接点がどこにあるのかはまったく明かされないままだった。今もなお、オウム的なカルト集団がある種の若者たちを引きつけるのかという謎に対してメディアは迫りきれていない。

この文章を読んでくださった方は、学生たちが作ったドキュメンタリー作品をぜひ視聴してみてほしい。

あるいは、学生たちが書いたルポの文章を読んでみてほしい。

 今日の新聞各紙の朝刊や夕刊、あるいはニュース番組では伝えられていない「普通の主婦」の物語が表現されていることに驚く人もいるはずだ。

 現在すでにプロのジャーナリストの仕事をしている人も、この違いにこそ、既存メディアが克服すべき「何か」があることに気がついてほしい。元テレビの報道屋として、現在は学生たちに作品を作らせている私のような人間の立場で見ても、時々、学生のほうが素直に観察した表現に驚いてしまったり、既存メディアの旧態依然ぶりに目の前がクラクラさせられたりする。それが偽らざる実態なのである。

 オウムの事件のような大きな事件の節目こそ、どんな視点で伝えるか、それぞれのメディアそのものを評価する絶好のタイミングだといえる。

 

 最後に、ドキュメンタリーを制作した学生の一人がこんなメッセージを送ってきたので読んでいただければ幸いである。そこにはマスコミが持ち上げようとする「立派な学生」ではなく、「普通の学生」なのだという自覚と覚悟がほどよくある。謙虚な自信が、先生としては、少しうれしい。

私たちは「サリン事件という生まれる前の事件を追った凄い学生」ではなくて「時々授業もサボるふつうの大学生」です。

だからこそできたドキュメンタリーです。私たちだから、ふつうだから、出来た視点で、だからこそ喜ばしいことに沢山の関心をいただいたのだと思っています。

私たちが気付けたように気付ける学生はいっぱいいると思います。そういう意味で知ってほしいです。私たちがどんどん増えてくれれば嬉しいです。

(2018年7月7日Yahoo個人より転載)