籾井勝人「新会長」で進む『安倍さまのNHK』。最初の記者会見では「不偏不党」を強調して釘を刺す。

2013年12月20日、NHKの経営委員会は年明け1月24日で任期満了になる松本正之会長の後任の新しい会長として籾井勝人氏を決めた。安倍晋三首相の「お友だち」が多数、送り込まれた経営委員会が、安倍首相と菅義偉官房長官の政権中枢ラインに近い人間を選ぶことは確実されてきたが、この籾井勝人という人はどんな人物なのか。

■籾井勝人という人物

2013年12月20日、NHKの経営委員会は年明け1月24日で任期満了になる松本正之会長の後任の新しい会長として籾井勝人氏を決めた。安倍晋三首相の「お友だち」が多数、送り込まれた経営委員会が、安倍首相と菅義偉官房長官の政権中枢ラインに近い人間を選ぶことは確実されてきたが、この籾井勝人という人はどんな人物なのか。

福岡県出身。九州大経済学部卒。三井物産に入社後、米国三井物産社長や本社副社長を務めたものの、社長レースには敗れて、日本ユニシス社長に就任。相談役を経て現在、特別顧問。

この人物の放送に関する考え方など、詳しいことはあまり伝えられていない。

NHKのニュースによると、12月20日に記者会見した籾井氏は以下のように話している。

「非常に重責のポジションであり、ぶれない経営をこころがけていきたいと思いますし、公正中立、不偏不党ということを確実に実行する必要があると思っております。常に原点回帰。それはつまり、放送法第1条、これに回帰することによって、NHK全体の力をそこに結集し、一丸となって公共のためにお役に立てるNHKにするという、こういう業界の文化をつくり出すことができれば大変に幸せだと思っている」

出典:NHKニュース

「新会長」が強調した放送法の第1条とはどんな規定か?

放送法の第1条は法律の目的が記されている。

(目的) 第1条 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。 1.放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。 2.放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。 3.放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

出典:法庫コム

第1条全体では、「表現の自由」や「健全な民主主義の発達」という言葉も見られるが、会見での籾井氏の口ぶりでは「不偏不党」や「公共の福祉」の方にこそ重点がある印象だった。

籾井氏は、これまでのNHKの放送をどう見ているのだろうか?

■籾井"新会長"のいう「不偏不党」

週刊文春12月26日号には、「"NHK新会長"籾井勝人氏が語る『偏向報道』と『九州人脈』」という記事が載っている。

安倍首相がNHKの"偏向報道"を懸念しているようだが、という質問に、籾井氏は、以下のように答えている。

「それはNHKに限らず、テレビの報道は皆おかしいですよ。例えば、『反対!』っていう人ばかり映して、『住民が反対している』と。じゃあ何人デモに来ていたか、というのを言わない。僕は言うべきだと思っている。賛成と反対があるならイーブンにやりなさい。安倍さんが言っているのはそういうことですよ。何も、左がかっているから右にしろと言っているわけではないと僕は理解しています」

文春の記事を読む限り、籾井氏の言う「不偏不党」というのは、いろいろな問題を報道するにあたって、誰が賛成で誰が反対で、それぞれ賛成派と反対派の人数を数量的に明示せよ、というものらしい。

テレビの報道や番組制作を経験した人間からすれば、この見解は、テレビという伝達機関の特徴をまったく理解していない「素人の認識」だというほかない。

第一にテレビというメディアは時間の制約があって、そうした数量的な「不偏不党」を追及したら、1つのニュースのテーマごとに膨大な時間が必要になってくる。

第二にテレビは映像と音声が時間とともに次々に流れていくために、一定の流れを作った上で流れに乗っていかないと次のシーンに進むことができない。

特にドキュメンタリーのようなジャンルではその傾向が強い。

ニュースなら、まだスタジオでいろいろな意見をフリップなどで伝えることができる。

しかし、現場をじっくり撮影したり、事件や事故の背景となった事実を検証したりするドキュメンタリーでは、それぞれのシーンの一つずつに「賛成」「反対」などと入れていったら、およそ作品として成立しない。

スタジオ部分があるニュース番組でも、逐一、籾井氏が言うような「賛成」「反対」「それぞれの人数は?」というようなことを徹底的に追及していったら、とても情報過多で見ていられない放送になってしまう。

その結果としてどうなるか?

■対立点がある問題より「ホット炭酸」を報道?

選挙期間中の選挙のニュースみたいに、秒数をほぼ同じにして、それぞれの政党の意見を機械的に伝えるような味気ない報道をやるか。

あるいは、そうした政治的に対立点がある、扱いの難しいテーマを避けて「ホット炭酸」がブームになっている、というような、トレンドものに走る、というようなことをやるしかない。残念なことにこの傾向はすでに現実のものになっている。

特定秘密保護法の成立にいたる一連の報道で、NHKがメインニュース番組である『ニュースウォッチ9』などで、内容の是非に踏み込んだ解説を避けて、「ホット炭酸」などのトレンド報道を意識的に行い、「強行採決」についても「強行」という言葉を使わなかったことが象徴的だ。

特定秘密保護法そのものに関する報道の時間も民放に比べて少なく、報道の自由を狭めかねない問題では独自の取材や解説をまったくしなかった。こうした報道も、「新会長」就任後を意識して報道局の幹部たちが政権の意向を先取りした末だったに違いない。

「籾井会長」がテレビというメディアの特徴を理解せずに、自分なりの「不偏不党」を組織全体に押し付けようとしたら、今後とんでもない放送が次々に生まれることになるだろう。

ニュース報道は、政治的な問題や原発の問題、特定秘密保護法、防衛など、安倍政権が重視するテーマを批判的に扱うことができなくなる。

ドキュメンタリーのように、1つずつ、事実を積み上げて展開していくジャンルの番組は、放送すること自体も難しくなるかもしれない。

だが、世の中にある報道のテーマは、『ニュースウォッチ9』が特定秘密保護法よりも力を入れて報道した「ホット炭酸」のようにお気楽なテーマばかりではない。

原発問題ひとつみても、福島第一原発の汚染水、廃炉、作業員の健康管理、使用済み核燃料の処分、他の原発の再稼働と大地震の可能性など、社会的な影響が大きいテーマで専門的に見ても意見がぶつかる問題は多い。そうした問題で安倍政権が満足するような「不偏不党」を徹底して求めるのなら、結果として現場の制作者や記者たちには、表面的にさらりと扱う、という選択肢以外には手はないだろう。

その時、NHKのドキュメンタリー制作の伝統は消えてしまう。これほど調査報道の能力がある放送ジャーナリスト集団は世界中を見渡しても他の組織には存在しないのに。

■安倍首相が「九州人脈」と"新会長"を決定?

『週刊文春』の記事には、今回の会長人事が「九州人脈」で決まったのではないかという推測とともに、長崎出身で安倍官邸とも近い古森重隆・富士フイルムホールディングス会長が推薦したという見方が示されている。

NHK経営委員会の「会長指名部会」が次期会長候補を絞り込んで検討していたちょうどその時期、安倍首相とNHKに関係がある2人の財界人が会食をしている。

12月10日の新聞紙の「首相動静」では

「(午後)7時8分、東京・南麻布の日本料理店『有栖川清水』。葛西敬之JR東海会長、古森重隆富士フイルムホールディングス会長らと食事」

とある。葛西氏も古森氏も安倍氏のブレーンだ。

葛西敬之氏は、JR東海の副会長だった部下・松本正之氏がNHK会長に就任するのに力を貸した財界人だが、NHK会長に就任した松本氏が要望を聞かなかったことで「松本おろし」を画策したと週刊誌などで報道されている。

また古森重隆氏は、安倍首相ともきわめて親しい前NHK経営委員長だ。つまり、安倍首相はNHKのトップ人事に深いかかわりがある2人との会合で「籾井勝人NHK会長」を了承、事実上、ここで人事が決まったものとみられている。

NHKの会長人事を長年取材してきたベテラン新聞記者は「政権がNHK会長人事にこれほど直接的に露骨に介入したことはかつてない。日本のジャーナリズムの危機だ」と懸念を露わにする。

籾井勝人「新会長」が、テレビというものの本質を理解せずに、「素人」の浅はかな『不偏不党』を部下に指示するようになったら、NHKの報道やドキュメンタリーは死んでしまう。

特に3・11以降、いざという時に政府や電力会社、原子力ムラの専門家などには住民を守る能力がないことを露呈させた原発問題での一連のドキュメンタリーシリーズは、国民全体の「公共財」と言っても良いほど価値があるものだ。NHKの調査報道の力は突出していた。現在も迷走が続く原発問題については、NHKによる継続的な報道は今後も社会全体の「公益」に寄与するものであり、必要不可欠だと思う。

万一、NHKがそれをできなくなってしまったなら、私たちは福島第一原発事故による放射能汚染の現状を始め、様々なことを知る手段を失ってしまう。

そうならないように、NHKの放送におけるちょっとした変化も見逃さないように注視していく他はない。

原発による深刻な汚染のニュースまで「ホット炭酸」に替えられてしまったら、たまったものではないから。

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