「立憲的改憲論」は、野党分断の道具なのか? ~三国志で読み解く~

批判しても全然構わないが、親の仇のように憎む必要はない。

先日、Twitterで、『もはや「改憲的護憲論」「新9条論者」が安倍官邸による野党の分断工作の道具と化したのは明らか』というツイートを見かけた。

また、政治評論家の有馬晴海氏が「山尾氏は自衛隊の活動に一定の歯止めをかけて憲法に位置づける方向で9条改正を検討しており、安倍私案とかけ離れたものではない。だから官邸も彼女の動向に注目している」と発言しているというツイートもあった。

筆者は、山尾志桜里議員の政策顧問である倉持弁護士が作成に協力した、いわゆる自衛隊に関する「立憲的改憲論」を読んだことがあったので、こうした意見に違和感があった。

そこで、実際のところどうなのか考えてみたら、

1 野党が分断されているわけではない

2 立憲的改憲論は「埋服の毒」からの「苦肉の計」

3 立憲的改憲論で保守のハト派を味方に付けられる

4 立憲的改憲論を批判していい

5 立憲的改憲論を憎む必要はない

・・・ということが見えてきた。

6 そして、自民党案は立法技術的に稚拙だということも見えてきた。

1 分断されているわけではない

(1)想定される自民党の自衛隊明記案

まず、想定されている自民党の自衛隊を憲法に明記する案の一つはこのようなものだ。

「但し、前項は、国家存続に必要な自衛力の保持を否定してはならない」

これだと、存在を書き込むだけで、何ができるかという権限やどうコントロールするかは法律に委ねることになってしまい、多数派の意向で何でもできることになりかねない。

しかも、国会や裁判所のコントロールが及ぶのかどうかもはっきりせず、内閣だけの判断で暴走しかねない建て付けになってしまう。

(2)いわゆる「立憲的改憲論」とは何か

これに対して、山尾志桜里議員の考えている立憲的改憲論はこのような内容だと聞いている(立憲的改憲論を批判している方々がこれを読んだことがあるかどうか分からないが、まだあまり世に出ていないので、仕方がない面はある。)。

<9条の2>

1項 前項の規定にかかわらず、我が国に対する直接的な外国の武力攻撃及びその着手に相当する行為によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の侵害に対して、これを排除するために他の適当な手段がない場合において、当該侵略行為を排除するために必要最小限度の範囲での個別的自衛権を行使でき、これを超える武力の行使や集団的自衛権の行使はこれを認めない

2項 前項の個別的自衛権の行使にあたって必要な限度において、前条2項後段の交戦権の一部にあたる措置をとることができる。

3項 第1項の個別的自衛権及び前項の交戦権の行使のための必要最小限度の戦力を保持することができる。

4項 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊を指揮監督する。自衛隊の行動については、法律の定めるところにより、国会の承認及びその他の民主的統制に服する

5項 本条の規定は、専守防衛の理念の下、受動的かつ抑制的に運用されなければならない。

6項 我が国は、全世界の軍縮及び核廃絶のためにあらゆる手段を尽くすよう努めなければならない。

要するに、集団的自衛権を否定し、専守防衛に限定し、国会のコントロールで自衛隊をガチガチに固めようとする内容で、到底、集団的自衛権の行使を容認した安倍首相が飲めるような内容ではない。

そうすると「山尾氏が安倍私案とかけ離れていない」という評価よりは、むしろ「かけ離れ過ぎている」という方が正当な評価だろう。

また、これまでの山尾氏の国会質問や、この案の作成に協力した倉持氏が自民党改憲草案をコテンパンにしていることからすれば、安倍首相側が「集団的自衛権の行使は認めさせるけれども、ちょっと立憲的改憲論が言っていることも取り入れてあげるよ」という程度でなびくはずがない。この立憲的改憲論を出した趣旨からすると、これを飲むか、そうでなければ自民党案には反対という結論にならざるを得ない。

(3) 野党は分断されるのか

その上で、この立憲的改憲論が野党を分断する官邸の道具に成り下がっているのかどうかである。

野党が分断されるという点についてであるが、立憲民主党は、党として自民党の主張する自衛隊明記に反対しているので、この立憲的改憲論は山尾議員の私案ということになろう。そして、山尾議員が、採決において党の方針に反する行動をとることも考えられない。そもそも立憲民主党の立ち位置で自民党の自衛隊明記案に乗ることは考えられない。立憲主義という党のアイデンティティの問題になるからだ。

そうであれば、自民党案に反対する立場の野党が割れて、立憲民主党が自民党案に乗るということはないだろう。

(4) 支持者は分断されているわけではない

では、支持者が分断されるという点はどうだろうか。

いわゆる護憲派は、9条の変更そのものに反対であり、自民党案のみならず、立憲的改憲論にも反対のようである。

その意味では、立場が違うということはできるが、護憲派と立憲的改憲論に共通するのは、自民党案には反対というところである。裁判用語で言えば、「理由付き否認」であることは同じで、否認の理由が違うだけということであり、「否認である」という点についての論理的な価値としては同じである。

だから、全く問題ない。どちらも反対だからだ。

違うアプローチで、それぞれの届く層にリーチして、違う層に浸透していけばよいだけのことである。

なお、護憲派が、立憲的改憲論が主張されることで、自民党がこの内容を丸のみして9条が変わってしまうことを心配しているのであれば、既に述べたように、そのような心配は不要である。集団的自衛権を否定している時点で、自民党が飲める案ではないからだ。

そして、現在の議席数の構成で、立憲的改憲論が実現することはあり得ない。できたらいいよねというレベルに過ぎない。もちろん、本当に立憲的改憲論を実現したいと思っている人もいるだろうけれども、そういう人も自民党案には反対なので、国民投票ではどちらも反対に投じることになる。

むしろ、立憲的改憲論をぶつけると自民党案の欠陥が浮き彫りになるので、議論するのに使えるツールになると理解しておけばよいだろう。

2 立憲的改憲論は「埋服の毒」からの「苦肉の策」

(1)埋服の毒

もし官邸が山尾議員を取り込んだつもりだったり、立憲的改憲論を野党分断の道具にしているつもりだったりするのであれば、それこそ三国志で出てくる「埋服の毒」になる危険を冒すことになるだろう。

いや、むしろ、立憲的改憲論のメリットは、「埋服の毒」になり得るところなのではないかと思っている。

「埋服の毒」というのは、三国志の赤壁の戦い(魏が呉と蜀の連合軍を攻めた戦い)で、魏が呉に対し、とある武将に嘘の投降をさせて呉の内情を探ろうとしたというものである(結局、それは蜀の孔明と呉の周瑜にばれてしまうのだけれども。)。

(2)保守穏健派の切り崩し

自民党支持者にもいろんな人がいるはずである。ハト派の議員もいるのだから、ハト派の支持者もいるだろう。なんなら、平和の党を自称する公明党支持者の中には、複雑な思いを抱いている人もいるはずである。真面目な人であればあるほど。

でも、そういう人に対して、「自民党案には反対だ!」とぶつけても、何の効果もない。自分が批判されているような気分になってしまい、反発されるだけで声は届かない。

ところが、自民党案でいいと思い込んでいる人たちも、「改憲論」とタイトルに付いていると、「お、野党にも物わかりのいいのがいるじゃないか」と乗ってきて、読んでしまうという効果が期待できる。そうすると、自民党案の欠陥に嫌でも気づくという仕掛けなのである。そうすると、中には、自民党案じゃダメだね、ということで、国民投票で反対する人も出てくるかもしれない。味方だと思って取り込んだつもりの立憲的改憲論が、実は「埋服の毒」で(しかも、史実とは違って成功してしまい)、内側から崩されるということになるのだ。

有権者の5~6割いると想定される無関心層が賛否のどちらになびくか、いや、それ以前に国民投票に行くのかどうかすら現状では不確実すぎて、その無関心層の票を当てにして国民投票に臨むのは危険すぎる。

そこで、確実に国民投票に行く左右両極の支持者の内、右側を崩して取りに行こうとしているのが立憲的改憲論だと考えた方がよいだろう。

このように、護憲派が自民党案になびくことは考えにくい一方、自民党支持者は一枚岩ではなく、護憲派の票だけでは足りないところを、自民党案ではちょっと乗れないという保守穏健派を取り込むことを考えて、護憲派から裏切り者扱いされようとも策を投げ込むあたり、山尾議員は並大抵ではない。

(3)苦肉の計

この辺りは、むしろ赤壁の戦いで埋服の毒を受けた呉蜀が、その後に、魏に対して「苦肉の計」を使ったところに通じるかもしれない。護憲派からこんなに叩かれている立憲的改憲論は、自衛隊明記にとって悪くないんじゃないかと、自民党案の支持者から思われるからである。

「苦肉の計」というのは、呉蜀の連合軍が魏の水軍に対して火計を仕掛けたいと思っていたものの、普通にやっては上手くいかないので、呉の老将である黄蓋が呉の司令官である周瑜に反抗したとして鞭打ちの刑罰を加え(この時代の鞭打ちは、鞭というより棒打ちなので、下手をすると死んでしまうほど痛い。)、呉に不満を持ったと見せかけて黄蓋が魏に投降してきて、先の魏の用いた埋服の毒とは違って、体罰を受けているので信用され、めでたく魏の陣に火を放つことに成功したという策である。決して苦し紛れの下手な策という意味ではない。

4 立憲的改憲論を批判していい

そうすると、このような効果を狙っている(かどうかは分からないが、そのような効果がある)立憲的改憲論は、大いに批判していいということになる。その方が効果が上がるからだ。

その批判として、相手の土俵に乗ってはいけないというものがある。

しかし、既に衆参両院で改憲派に議席の3分の2を取られていて、こちらがどんなに反対しようとも、既に土俵は作られてしまっている。

それに対して、土俵を作り直すのが立憲的改憲論なのであろう。そうして護憲派から叩かれれば叩かれるほど、自民党は、立憲的改憲論を土俵に載せて議論したくなるが、議論すればするほど、自民党案の欠陥が浮き彫りになって、国民投票で不利になるという構図である。

5 立憲的改憲論を憎む必要はない

そうはいっても、護憲派諸氏からすると、戦争の反省と平和主義の表れである9条に手をかけようとする立憲的改憲論は到底許せないという気持ちもあるだろう。

しかし、現状、改憲派の政党に投票した有権者の数は、いわゆる立憲野党に投票した有権者の数を上回っている。

(もっとも、選挙での投票は複数の争点がある中で、よりマシな選択をするものなので、国民投票のようなシングルイシューの場合に、それも自衛隊、9条、平和主義という個人の信条が問われるものの場合には、投票の傾向が異なってくることが予想される。)

そんな中、立憲的改憲論は、自分たちでは取りに行くのが難しい保守票を取ってきてくれるのである。

そうすると、立憲的改憲論を批判しても全然構わないが、親の仇のように憎む必要はないということになるのではないだろうか。

このように考えてくると、冒頭の立憲的改憲論が野党分断の道具なのかとか、安倍私案とかけ離れていないのかというような懸念を抱く必要はないのではないかというのが、私の考えである。

6 自民党案は立法技術的に稚拙

自衛隊明記についての私の立場は、想定されている自民党案は、条文の書き方が稚拙すぎて、護憲とか改憲とか以前に、法律家としてありえないので反対ということになる。

例えば、大日本帝国憲法では、天皇が軍を統帥する(11条)、天皇が軍の編成と常備兵額を定める(12条)、天皇が宣戦布告と講和をする(13条)ということが定められているだけで、どうコントロールするかが書かれていなかった。それだけが理由ではないが、軍は天皇の統帥権を言い訳に内閣の言うことを聞かず、戦争に突入し、戦線を拡大して敗戦し、日本国民は塗炭の苦しみを味わうことになった。

これに対し、例えば、アメリカ合衆国憲法を見ると、三権分立の観点から、宣戦布告、軍の維持・統括や規則の制定などは連邦議会の権限とし(第1章8条)、戦争の遂行は米軍の最高司令官である大統領の権限として分けている(第2章2条)。議会が予算を付けてくれなければ、大統領は軍を動かせないという建前になっているのだ(ただ、例外があって、それが拡大してしまったので、再度、立法で縛ることになった。)。

ドイツに至っては、民衆に良心的兵役拒否権(4条3項)や抵抗権(20条)まで定めて、軍が勝手なことをしたら民衆が対抗できるようにして、軍の暴走を抑える構造になっている。

このように見てくると、「自衛隊を持つことを妨げない」という程度の明記ならいいだろうではなくて、何をしてよくて、何をしてはいけなくて、どうコントロールするかということが全く書かれていなくて、危険極まりないものになっていて、立法技術的に稚拙としか言いようがないのである。

これで、「自衛隊を憲法に明記しても何も変わりません」などという説明をするのは、不誠実極まりない。「コントロールについては憲法に書きませんが、悪いようにはしませんから安心してください」というのと同じである。

もし、顧問弁護士として、このような稚拙でこちら側でコントロールしようもない契約書を見せられて相談されたら、リスクが大きすぎて反対するレベルである。

あるいは「悪いようにはしないから、ここにサインして」といって契約書をよく読ませずに署名させるのは、消費者被害でありそうな話である。

弁護士としては、そのような話を聞いたら、お止めしないわけにはいかないのである。

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