佐村河内氏(名義)の作品を酷評する人々の心理とは

全聾の作曲家という触れこみで"現代のベートーヴェン"と持てはやされた佐村河内守(さむらごうち・まもる)氏の楽曲が、じつはご本人でなく、別の方によって作曲されていたというニュースが論議を呼んでいる。この件が報道されて以来、「障害者としての意見」が気になるのか、「乙武さんはどう思いますか?」という質問が多く寄せられている。

全聾の作曲家という触れこみで"現代のベートーヴェン"と持てはやされた佐村河内守(さむらごうち・まもる)氏の楽曲が、じつはご本人でなく、別の方によって作曲されていたというニュースが論議を呼んでいる。

この件が報道されて以来、「障害者としての意見」が気になるのか、「乙武さんはどう思いますか?」という質問が多く寄せられている。ご本人が口を閉ざしている段階で、私があれこれ語ることにためらいがないわけでもないが、私なりに感じたことをまとめてみたい。

ネットでの論調を見ていると、以下のふたつに意見が大別されるように思う。ひとつは、「誰が作曲者であろうが、作品の価値は変わらない」とする考え方。もうひとつは、「騙された。とんだ駄作を買わされてしまった」とする考え方。

この両者がそれぞれ意見を戦わせているように見えるが、私自身は「どちらも正解」だと思っている。つまり、商品を購入する際に「何を重視するのか」というモノサシが異なれば、今回の報道についての感想もまるで違ったものになるだろうと思うのだ。

私自身、それほどビジネスの世界に明るいわけではないが、最近は「コンテンツからコンテクストへ」という流れがあるらしい。コンテンツとは、小説や映画、音楽の「中身」そのもの。つまり、いかに作品としてすぐれたものを生み出し、売り出していくかという努力が必要になってくる。

これに対して、コンテクストとは「文脈」のこと。作品自体に、「どんな人物が」「どのように生み出したのか」という物語を付与することで、人々の関心を誘い、作品への評価を高めようとする。最近では、とくにこの手法が重視されているのだという。

佐村河内氏名義の作品は、まさにこの"コンテクスト"を重視した手法によって多くの人々に知られることとなった典型だろう。もちろん、音楽に疎い私には、彼名義の楽曲の優劣について論じる資格がない。

しかし、日本では数千枚も売れれば大ヒットと言われる交響曲という分野で、彼の作品が10万枚を超えるヒットを記録したという事実は、やはり"コンテクスト"抜きにしては達成しえない快挙だったはずだ。

「耳の聞こえない人が、こんな作品を書いたなんてすごい!」――そんな思いでCDを買った人々が、今回の報道によって「騙された」「裏切られた」という思いを抱くのは無理もないことだろう。

じつは、私自身、この"コンテクスト"には幼い頃から苦しめられてきた。先天性四肢欠損という障害に生まれながら、健常者とともに育ってきた私は、周囲の大人たちから事あるごとに褒められてきた。

「すごいね」「よくそんなことできるね」――しかし、私がやっていることと言えば、歩く、食べる、字を書くといった、ごく基本的な動作。それを褒められるたびに、子どもながら違和感を覚えていた。みんなと同じことをしているだけなのに、どうして僕だけが褒められるのだろう、と――。

答えは、すぐに出た。私が、障害児だからだ。「どうせ、この子は何もできないだろう」という前提があるからこそ、みんなと同じことをしただけで「素晴らしいですね」と評価される。私が何をしたって、その"行為"そのものではなく、「どんな状況にある子が」それをしたのかという"文脈"がついて回った。

そうした重苦しい、粘り気のある視線は、当時の私にとってあまり心地のいいものではなかったし、正当な評価を受けたいという思いはつねにあった。それによって、たとえそれまで履かせてもらっていた下駄を剥ぎ取られる結果になったとしても。

だが、その私自身もまた、"コンテクスト"の呪縛から完全に逃れられているとは言いがたい。中村中という歌手がいる。彼女の「友達の詩」という曲を初めて聴いたときには、正直、鳥肌が立った。性同一性障害であることを公表している彼女が「手をつなぐくらいでいい 並んで歩くくらいでいい それすら危ういから大切な人は友達くらいでいい」と歌う姿には、涙を禁じ得なかった。

しかし、そこには、「いったい彼女はどれだけつらい恋愛をしてきたのだろう」という私の勝手な推測が根底に流れている。「性同一性障害である」という彼女の境遇が、この曲に対する私の思いを高めていることは間違いない。おそらくは、彼女自身、そうした見方をされることを望んではいないだろうけれど。

幼少期からずっと"コンテクスト"に苦しめられてきた私でさえ、他者に視線を向けるときには思わず"コンテクスト"を意識してしまう。だからこそ、そこに強烈な磁力を感じるのだ。もちろん、なかには「誰がつくったのかは興味がない。大切なのは作品そのものだ」と、みずからの確固たる価値基準によって作品を評価される方もいるだろう。

しかし、誰もがそのように優れた審美眼を有しているわけではない。その作品を包む"ストーリー"に惹かれて、思わず商品を手に取ったという方はけっして少なくないはずだし、そうした人々を非難することはナンセンスであるように感じる。

昨年秋、食材偽装問題が世間を賑わせたが、あれは"コンテンツ"そのものにウソがあった。今回の佐村河内氏をめぐる騒動については、"コンテクスト"に大きなウソがあったと言わざるをえない。

いまの時代、販売戦略において"コンテンツ"だけでなく"コンテクスト"も重視されるのであれば、やはり佐村河内氏にも説明責任がある。そして報道が事実ならば、彼名義の作品を評価してくれた人々に対し、誠意を持って謝罪をする必要があるのではないだろうか。

なお、「佐村河内氏の耳はじつは聞こえており、障害者手帳を不正に取得しているのであれば、そもそも詐欺であり、犯罪なのでは」というご指摘もあるかと思うが、これについては代理人サイドが否定しており、真偽が定かではないので、ここでの言及は控えたい。

(2014年2月11日「乙武洋匡オフィシャルサイト」より転載)

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