古舘氏降番、試されるテレビ報道の覚悟

社会には簡単に白黒つけられない問題が山積している。だからこそ、様々な見方を提供するのがテレビの報道番組の責務なのだと思う。

テレビ朝日系列「報道ステーション」の古舘伊知郎キャスターが3月末、降番した。12年間務めたという。その前番組「ニュースステーション(1985年スタート)」の久米宏キャスターは19年務めたから、合わせて31年という長きに亘って、テレビの報道番組の一時代を築いたといえよう。月曜から金曜まで22時台に「ニュースを見る」、という習慣を国民の間に植え付けたこの番組の功績は大きい。

日本の民間放送にそれまでなかった、この夜の大型報道番組は、他の追随を許さず、テレビ朝日の独走状態となっている。この時間帯に他局が同じような報道番組をぶつけることはほとんど不可能な状況だ。それほど圧倒的な視聴率を、30年過ぎた今でも誇っている。過去絶好調の時には視聴率が20%を超すこともあり、平均しても毎日1千数百万の国民が同番組を視聴するお化け番組に成長した。

他局のライバル番組にはTBS系列の「筑紫哲也NEWS23」があった。1989年に始まったこの深夜の報道番組は、朝日新聞出身で朝日ジャーナルの編集長も務めた生粋のジャーナリストである筑紫哲也氏をメインキャスターに据えた。番組タイトルに彼の名前を入れ、筑紫氏を番組編集長という位置づけにした。筑紫氏は番組内に「多事争論」という90秒のコーナーを持ち、持論を展開するなど、番組は筑紫色を前面に打ち出した硬派のものであった。

一方、ニュースステーションは、NEWS23とは一線を画し、天才的話術師、元TBSアナウンサーの久米宏氏の軽妙なトークを「売り」にし、その語り口と分かりやすさに重点を置いた番組のスタイルに多くの視聴者に支持された。かくして、ジャーナリストではなく、話術に長けたタレント・アナウンサーがキャスターをやる、というスタイルが一般化した。筑紫キャスターが去り、TBSの報道番組はテレ朝の後塵を拝している。

その後継番組、報道ステーションのキャスターとなった古舘伊知郎氏も全国朝日放送(現テレビ朝日)のプロレスの実況アナウンサーとして名を馳せた人物であり、久米氏の路線は継承され、テレビ朝日の牙城は崩れることはなかった。

さて、その古舘キャスターが先月末を持って降板した。番組内で古舘氏は、ニュースの言葉遣いが特殊で伝えにくかった、というようなことを言っていた。もし彼が12年間こうした想いを抱き続けていたのだとしたら、それは記事を書く記者の問題だろう。すべからくテレビのニュース原稿は「分かりやすく」を原則に、耳で聞いて誰でも理解できるように書くことが求められる。それが出来ていなかったと明言されては、番組スタッフは立つ瀬がないと思うのだが。

そして、古舘氏はこうも言っていた。こちらの方が彼の言いたかったことなのではないか。

「人間は少なからず偏っている。情熱を持って番組を作れば多少は番組は偏るんです。」

番組を通し、権力に対し言うべきことは言う。そうした矜持を持ち続けてきた古舘氏の自負がこの発言に込められていると感じる。しかし、「番組は偏る」ものだ、と明言してしまっては、「放送法は遵守しない」と言っているに等しく、これはよろしくない。もう辞めるのでかまわん、ということなのだろうが、こうした発言を止めることが出来ないテレビ朝日はやはりわきが甘いと言わざるを得ない。いや、敢えて黙認したのかもしれないが、こうした姿勢が、政治の介入を招くことになるのだ。

一般的にはキャスターは何でも自由に発言できると思われているかもしれないが、決してそんなことはない。特に政治的なニュースの場合、どこかの政党に肩入れするような発言は放送法違反となるので、慎重な物言いが求められる。無論、キャスター一人一人に政治的信条はあろう。しかし、それを勝手に番組内で発言されたらテレビ局はたまったものではない。だから、番組の責任者(注1)は放送開始前にキャスターと発言内容のすり合わせをするのが普通だ。なぜなら、キャスターの発言は、番組そのものの報道姿勢と同じと受け取られる可能性が大だからだ。

だからこそ、政治的に微妙な発言は、コメンテーターにさせるのが通例だ。しかも、番組が一方的な意見に偏らないように、通常、複数のコメンテーターをスタジオに招いたり、異なる意見の複数の識者の意見をVTRで紹介したりして、バランスを取るよう努めている。

社会には簡単に白黒つけられない問題が山積している。福島県における低線量被ばくの問題、原発再稼働、アベノミクスの評価、ワクチンの問題、安保法制、それに憲法改正・・・どれをとっても国民の合意を取るのは簡単ではない。だからこそ、様々な見方を提供するのがテレビの報道番組の責務なのだと思う。「多少偏向して」いいわけがない。残念ながらそれが現行法制下、テレビ局が守るべきことなのだ。

窮屈ではある。しかし、だからこそ、番組制作に工夫が求められるのだ。その工夫とは、人気タレントをキャスターやコメンテーターに招くことではないだろう。そうした一部の報道番組の姿勢に違和感を感じているのは筆者だけではあるまい。

政府や権力を批判するなら、その手立てを真剣に考えなければならない。ただ、言葉で批判しても何も始まらない。綿密なデータを積み重ね、そこから見てくるものを視聴者に紹介する。そんな地道な努力こそ、報道機関に求められているのではないか。テレビ報道が委縮している、との声が漏れ聞こえてくるが、それは、テレビ局の報道に対する覚悟が薄れているからではないのか。

キャスターにジャーナリストを据え、番組を硬派なものに変え、国民が知りたいと思うニュースをとことん掘り下げる。そうした努力を継続することでのみ、テレビ報道は権力に相対峙できるのだ。さもなくば、そうした番組を作ろうという志のある人間はネットの世界に流出していくだろう。今のままでいい、というのなら、テレビ報道の未来はない。

(注1)番組責任者とは、一般的に番組の編集長、もしくはPD(プログラムディレクター)と呼ばれるニュースの項目立てや送り出しに責任を持つ人間などを言う。

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