福知山線脱線事故から10年(JR西日本-前編-)

福知山線脱線事故から10年がたつ。事故前から今日までを振り返ってみよう。

目を疑い、言葉を失うほどの無残な姿。今でも忘れられない、福知山線脱線事故から10年がたつ。事故前から今日(こんにち)までを振り返ってみよう。

■福知山線脱線事故前、私はJR西日本に陶酔していた

JR西日本の関西地区は、同業他社との競合が激しい。国鉄時代、運賃は私鉄(阪急電鉄、京阪電気鉄道、阪神電気鉄道、南海電気鉄道、近畿日本鉄道など)のほうが安く、利便性もよい。一方、国鉄は相次ぐ値上げによって、高くなってしまった運賃に加え、サービスも不十分だった。

国鉄分割民営化後の1987年7月、JR西日本は経営理念を制定した。

経営理念

JR西日本は、人間性尊重の立場に立って、労使相互信頼のもと、基幹事業としての鉄道の活性化に努めるとともに、地域に愛され共に繁栄する総合サービス企業になることを目指し、わが国のリーディングカンパニーとして、社会・経済・文化の発展、向上に貢献します。

出典:『日本の鉄道 全路線5 JR西日本』(鉄道ジャーナル社刊)

その後、新型車両投入による快適性の向上、快速サービスの充実、スピードアップも実施された。その甲斐あって、並行の私鉄沿線から"JR西日本に乗り換える客"が多くなった。2001年3月3日のダイヤ改正では、「速くて便利なJRをお選びください」と、まるで選挙活動をしているかのような車内放送を耳にした。

JR西日本の列車や駅では、改札係員や車掌のキビキビした態度がよく、礼をして、「ありがとうございます」と言うので、"お客様への感謝の気持ち"が伝わってくる。東京の場合、JR東日本だと改札係員は淡々としており、車内精算で車掌が現れることがあるものの、車両を通り抜けるドアの開閉がザツで、西と東の"温度差"を感じていた(2010年代に入ると、JR東日本の接遇が改善された)。

現在、車内での携帯電話に関する放送が変わってしまったが、昔のJR西日本は具体的なことを言っていた。

「車内での携帯電話による会話やメール交換は、心臓ペースメーカーに影響を与えるほか、ほかのお客様の御迷惑となりますので、電源をお切りください」

これほどキメ細かく説明する交通機関は、ここしかない。

みどりの窓口の対応も、こちらが恐縮するほど行き届いている。

2003年12月、臨時快速〈ムーンライトながら91号〉大垣行きが雪による遅れで、あらかじめ指定席券を買っていた快速〈マリンライナー23号〉高松行きに乗れなくなるアクシデントが発生した。

姫路駅のみどりの窓口で、快速〈マリンライナー27号〉高松行きに変更してもらった際、当事者でもないのに係員は「申し訳ありません」と謝っていた。しかも、臨時快速〈ムーンライトながら91号〉大垣行きの遅れは、JR西日本エリアではなく、JR東海エリアなのだ。少々の天候不順で遅れるのは仕方がないことで、"終点大垣で接続する列車は待ってくれないだろう"と、なかば思っていた。

JR西日本が優位に立てたのは、新型車両投入によるイメージアップ、速度向上や快速サービスの充実などによる所要時間短縮だけではなく、JR旅客鉄道の中では、トップクラスの接遇も大きい。いつのまにか、私はJR西日本に陶酔し、青春18きっぷの旅では、"西志向"が強くなった。

ただ、運転に関しては、ジェットコースターのようなスリリングさを何度か体感しており、"定刻通りの運転"にはかなり敏感だったようだ。それが福知山線脱線事故を招いてしまったのかもしれない。

■JR史上最悪の事故

2005年4月25日9時18分、JR西日本福知山線塚口―尼崎間のカーブで、快速JR東西線経由同志社前行きが脱線し、前寄りの車両がエフュージョン尼崎(マンション)に激突。この事故で乗客106人、運転士(23歳男性)1人が死亡し、外国でも報じられた。多くの国は"定刻通り"にこだわる日本の姿勢に疑問を抱いていた。

私は事故の原因がスピードの出し過ぎか、置き石のどちらであると確信した(その後、置き石の可能性は完全になくなった)。同時に、1991年5月14日に信楽高原鐵道で発生した正面衝突事故は、JR西日本もかかわっていたため、"またか......"という思いだった。

事故原因は、運転士が伊丹で40メートルもオーバーランし、1分30秒の遅れを定刻に回復させるため、過剰な速度を出したことによる。207系の最高速度は120km/hだが、運転士は125km/hまで飛ばしていた。事故現場のカーブは、制限速度70km/hのところ、約116km/hで進入。ブレーキをかけると、わずか約4秒で先頭車が脱線し、エフュージョン尼崎に突っ込んでしまった。

私は「事故の背景として、尼崎で東海道本線大阪方面行き列車に接続をしなければならず、運転士があせっていたのだろう」と確信していた。1997年3月8日のJR東西線開業で、尼崎はジャンクションの役割を担う駅に変貌したからだ。例えば、福知山線上り列車(各駅停車、一部の快速)に乗ると、尼崎で東海道本線上り列車、もしくはJR東西線に、同一ホームで乗り換えられる。

死亡した運転士が速度超過で運転していたのは、定刻通りの運行を厳命されていたこと。みずからのミスでオーバーランをしてしまったため、「日勤教育が頭をかすめたからではないか」と言われていた。そのひどさをベテランの現役運転士がマスコミに告発している。さらに「過密ダイヤ」も原因の1つではないかと指摘されているが、東京都心もそのようなダイヤのはず。

東京都心の場合、ラッシュ時は乗降に手間取って、定刻通りに運行できないことが多く、遅れがひどいときは遅延証明書を発行するほど。JR西日本との決定的な違いは、尼崎みたいに、他線との接続をまったく考慮しないダイヤであること。都心はすぐに列車がやって来るので、終電のほか、事故や故障でストップしない限り、気にする必要はまったくない。

■事故後、不祥事が相次ぐ

事故直後、JR西日本の記者会見で、安全推進部長は「133km/h以上のスピードでなければ脱線しない」と言い、国民の不信を招いた。しかも、「お客様が誰も乗っていない場合」だと言うのだから、無責任に等しく、責任逃れとしか思えない。

また、「お詫びしたいと思います」など、「思います」を使っているのもいかがなものか。「思います」というのは"言い切っていない表現"で、「お詫びします」とハッキリ言わないところを見ると、トップに立つ人間の体質に問題があり、現場のことは、なにもわかっていない印象を受ける。

後日、事故当日の快速JR東西線経由同志社前行きに乗り合わせていた、JR西日本の運転士2人が無傷であるにもかかわらず、人命救助を放棄し、職場に直行していたことが発覚した。職場に直行したのも、"日勤教育を受けたくない"という思いなのか。近所や近隣の会社も業務を中断してまで、レスキュー隊に混じって救助活動を行なったのに、なにを考えているのか。

この不祥事について、JR西日本は会見で「お詫びいたします」と言った。「お詫びしたいと思います」という言葉に、批判の怒号を多く受けたのだろう。

JR西日本の垣内剛社長(当時)は事故直後、「辞任することは考えていない」と強気に言っていたが、日がたつにつれて、事の重大さに弱々しくなった。遺族の怒号を何万回も浴びたからだろう。2005年5月3日、献花台に花をたむけたときに言った「申し訳ありません」の言葉は忘れられない。しかし、日がたってからの献花に憤りをあらわにする人も多かった。

国土交通省は、JR西日本に対し、ATS(Automatic Train Stop device.:自動列車停止装置)を新型(ATS-P。運転士が取り扱いを誤った時だけ作動するタイプで、常時、速度照査が行なわれている)に更新しない限り、運転再開は認めない方針を示した。JR東日本の首都圏とJR東海は設置を完了しているという。

福知山線尼崎―宝塚間は、同年6月19日に運転を再開。同区間の最高速度を120km/hから95km/hに、事故現場の制限速度を70km/hから65km/hに、それぞれ引き下げた。このほか、快速の停車時間や所要時間の見直しも行なわれている。

脱線事故から数年後、福知山線の快速に乗ると、カーブが多いことに気づく。尼崎―宝塚間の120km/h運転は、ムリがあったと思う。

蛇足ながら、福知山線脱線事故後、全国の鉄道運転士は緊張の糸が途切れてしまったのか、連日のように、オーバーランや脱線事故など、鉄道トラブルが続発してしまう。列車に乗っても、乗客同士の会話は「先頭車はあぶないですね」とかが多く、全国的に鉄道の安全性、信頼性が問われていた(利用客の会話は、先頭車が多かった)。

■調査内容の漏洩問題

JR西日本は、福知山線脱線事故の発生や、企業体質がマスコミによって暴かれた影響もあり、経営理念に代わる「企業理念」と「安全憲章」を制定し、2006年4月1日に施行した。

JR西日本 企業理念

1.私たちは、お客様のかけがえのない尊い命をお預かりしている責任を自覚し、安全第一を積み重ね、お客様から安心、信頼していただける鉄道を築き上げます。

2.私たちは、鉄道事業を核に、お客様の暮らしをサポートし、将来にわたり持続的な発展を図ることにより、お客様、株主、社員とその家族の期待に応えます。

3.私たちは、お客様との出会いを大切にし、お客様の視点で考え、お客様に満足いただける快適なサービスを提供します。

4.私たちは、グループ会社とともに、日々の研鑽により技術・技能を高め、常に品質の向上を図ります。

5.私たちは、相互に理解を深めるとともに、一人ひとりを尊重し、働きがいと誇りの持てる企業づくりを進めます。

6.私たちは、法令の精神に則り、誠実かつ公正に行動するとともに、企業倫理の向上に努めることにより、地域、社会から信頼される企業となることを目指します。

出典:JR西日本ホームページ「企業・IR・採用」

安全憲章

私たちは、2005年4月25日に発生させた列車事故を決して忘れず、お客様のかけがえのない尊い命をお預かりしている責任を自覚し、安全の確保こそ最大の使命であるとの決意のもと、安全憲章を定めます。

1.安全の確保は、規程の理解と遵守、執務の厳正および技術・技能の向上にはじまり、不断の努力によって築きあげられる。

2.安全の確保に最も大切な行動は、基本動作の実行、確認の励行および連絡の徹底である。

3.安全の確保のためには、組織や職責をこえて一致協力しなければならない。

4.判断に迷ったときは、最も安全と認められる行動をとらなければならない。

5.事故が発生した場合には、併発事故の阻止とお客様の救護がすべてに優先する。

出典:JR西日本ホームページ「企業・IR・採用」

しかし、制定後も不祥事が続き、信頼回復が遠のくばかりだった。

神戸地方検察庁は2009年7月8日、ATS-Pの設置を怠ったことが大惨事につながったと主張し、福知山線ルート変更時に安全対策の最高責任者だった山崎正夫氏(当時、JR西日本社長)を業務上過失致死傷罪で在宅起訴。山崎氏は在宅起訴当日に社長職を辞任し、無罪を主張し続けていた。

その後、歴代社長の井出正敬氏、南谷昌二郎氏、垣内氏も同罪で強制起訴し、刑事裁判に発展した。"競合する同業他社に勝ちたい"という意識が強過ぎ、安全よりも利便性とスピードを最優先にしてしまったのだから、責任が問われるのは当然と言える。

2か月後の同年9月、JR西日本が国土交通省の航空・鉄道事故調査委員会(現・運輸安全委員会)に、調査内容を漏洩していたことが発覚した。同会が国鉄OBに担当させたことが原因で、"仲のよさ"を利用したものだった。当時の副社長、土屋隆一郎氏が指示を出したもので、発覚後に言い訳をして謝罪したが、現職は辞任しなかった(その後、辞任)。もし、政治家で大臣職を務めているのならば、辞任、解任は当たり前。ここでも社内体質の甘さが表れている。その上、兵庫県警に指示された資料の一部を故意に提出しなかった。

さらに、有識者に公述人を要請し、謝礼を出していたこと。資料を作成し、警察の事情聴取の対策をたてていたことも発覚。佐々木隆之社長(当時)や山崎正夫元社長などは、兵庫県伊丹市のホテルで行なわれた、『おわびの会』で、ひたすら謝罪をしていたという。

JR西日本はこの4年間で、「謝罪」を何回したのだろうか。同じことを繰り返しているだけで、改善の兆しもなかったが、2010年以降、トップニュースで取り上げられる不祥事がなく、"〈信頼回復〉という、終着駅のない列車が、ようやく始発駅を発車したのかな"と思う。

■御遺族、負傷者以外の方も、心の傷は一生癒えない

2012年1月11日、神戸地方裁判所は山崎氏に「無罪」判決を言い渡し、確定した。当然のことながら、御遺族の方々が納得するはずもない。同日、JR西日本の佐々木隆之社長(当時)がコメントを出し、事故に対するお詫びと、引き続き再発防止策に取り組むことを改めて表明している。

その後、井出氏、南谷氏、垣内氏も一審、二審とも無罪判決が出され、指定弁護士が上告し、三審にすべてを懸ける。御遺族の方にとって、三審の逆転有罪判決が故人への供養になると思う。

さて、私は山崎氏の判決前、福知山線の快速を利用した。下りが尼崎発車時、上りが塚口通過時(各駅停車や一部の快速は発車時)になると、乗客は乳幼児を除き、どうしても脱線事故現場が脳裏に蘇る。特に上りの場合は、名神高速及び県道338号線と交差する地点からブレーキをかけているので、乗客に脱線事故現場通過を知らせているようなものだ。

事故現場のカーブをゆっくり通過する。JR西日本が買い取ったエフュージョン尼崎は、事故当時のままだ。

上下線とも事故現場を通過する直前、それまでにぎやかだった車内は、乗客の話し声がピタリとやみ、悲惨な場を目(ま)の当たりにする。沿線の人々も心に大きな傷を負っているのだ。

福知山線脱線事故から10年。亡くなられた方の御冥福を改めてお祈りいたします。

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