東京メトロの異常時総合想定訓練2016

「地震発生、緊急停止。地震発生、緊急停止。地震発生、緊急停止」

■総合研修訓練センターでは初の実施

東京メトロでは、営団地下鉄時代の2002年から「異常時総合想定訓練」を毎年実施しており、様々なアクシデントを想定し、異常時における社員の対応能力向上を図ってきた。前回の2015年は南北線の王子車両基地(地下車庫)で実施され、実際のトンネル内の環境(狭隘(きょうあい)、暗所)に近い実践的な訓練となった。

今回は2016年4月1日に開所した総合研修訓練センター(東京都江東区。新木場駅から徒歩約20分)で実施した。ここは乗務員や駅員の育成などのほか、総延長約700メートルの訓練線(営業線に準じた設備を備える)もあり、様々な状況を想定し、実践的、効果的な研修や訓練ができる。

乗客の"役"を務めるのは約140人(社員約100人、お客様モニター約40人)で、東京メトロが保有する20メートル車の定員に相当する(参考までに、日比谷線新型車両13000系の定員は先頭車140人、中間車151人)。また、数十人の来賓が訓練の様子を見学したほか、初の試みとして、外国人の乗車を想定し、メガホンヤク(自動音声翻訳。英語、中国語、韓国語に対応)を導入した。

■震度6強の地震で脱線し、車内も停電したという想定

今回は日比谷線人形町―茅場町間を走行中の列車が震度6強の地震により、茅場町駅の約200メートル手前で急停車。その際、第2車両(前から2両目の車両)が進行方向左側に脱線したという想定で、訓練線のセンター西駅(模擬駅)を人形町駅、センター中央駅(模擬駅)を茅場町駅に見立てた。以降、本文では「センター西(人形町)」、「センター中央(茅場町)」と記す。「訓練開始」司会の男性が合図代わりに語気を強め、14時06分に訓練開始。数分後、訓練車の運転士が警笛を鳴らすと、轟音がトンネル内に響きわたり、ヘッドライトが煌々と輝く。訓練車が姿を現し、右方向へのカーブを通過しようとしたその時だ。

「地震発生、緊急停止。地震発生、緊急停止。地震発生、緊急停止」沿線に設置された地震計が揺れを感知し、ただちに指令所が全列車に早期地震警報を発令すると、訓練車が非常ブレーキをかけて急停車。その際、先述した事故が発生した。という想定である。無論、訓練では脱線やパンタグラフの損傷もない。客室は室内灯が消えたほか、空調も作動しない。唯一光るのは、乗降用ドア上に設けられたLCD式の旅客情報案内装置のみで、暗い場所での急停車に乗客は不安が募る。乗務員はただちに状況の確認を行なっている最中、第1車両(先頭車)から非常通報ブザーが鳴動した。3人の乗客が車掌の放送を聞かず、非常用ドアコックを使い、前から2番目の乗降用ドアを開けて、約1.1メートル下の線路へ飛び降りたのだ。3人のうち2人は軽傷、1人は重傷(骨折)。また、客室では軽傷者2人、心肺停止の重傷者1人(今回の訓練では人形を使用)がおり、車椅子用介助者1人も負傷したという想定である。

「お客様、大丈夫ですか」 運転士は転落した乗客3人を気遣い、この場を離れないよう指示を出す。車両の状況や、ほかの転落した乗客の有無を確認するため、運転士は客室から線路下へ降り、当該の乗降用ドアを閉める。

「止まれ、止まれー」状況確認と指令所の連絡を終えると、発煙筒による防護発報を行なうため、運転士は対向の線路を走りセンター中央(茅場町)方面へ、車掌は後方の線路を走りセンター西(人形町)方面へ向かい、非常事態を知らせる。指令所の指示により全列車が止まっているとはいえ、運転を再開した可能性もあり、これ以上事故を重ねないよう努めているのだ。

「誰かいませんか、お客様いませんか」防護発報を終え、現場に戻った運転士が線路上の乗客の有無を確認する。飛び降りた3人以外に車外へ出た乗客はいない。運転士は肉声で外へ出ないよう注意を促す。一方、車掌と、"偶然乗り合わせていた"という想定の社員が客室を巡回する。3人を除き、車外へ出た乗客はいない模様だ。運転士と車掌は全体の乗客数、負傷者の確認などを行ない、車掌は携帯用の無線で指令所に連絡をとる。

「電車の外に出たお客様は、いらっしゃいませんか」連絡をとったあとも乗務員は度々車外へ出た乗客の確認を行ない、救援を待っていた。

■訓練開始から約40分後に乗客の避難誘導を開始

訓練開始から23分後の14時29分、センター中央(茅場町)方からヘルメットにヘッドライトを装着した現地対策本部の2人(男女各1人)が駆けつけた。女性はただちに青のビニールシートを広げ、負傷者を坐らせる。偶然乗り合わせていた社員も車外で負傷者の対応などにあたる。先述した停電で空調が作動できない想定なので、乗客は車体側面の窓を開けていた。乗務員は放送及びマイクを使わない状態で、車外に出ないよう、乗客を落ち着かせる。男性は乗務員とともに状況の確認を行ない、線路上に設けられた電話で指令所に連絡をする。連絡手段は無線と電話の2つあり、断線しない限りはバックアップ態勢も充分整えている。

14時38分、センター中央(茅場町)方から消防隊(東京消防庁城東消防署)が到着。非常用ハシゴ(黄色い袋に入れた状態)を持参し、乗客全員の救助に全力を注ぐ。報道陣の近くで訓練を見守っていた作業員によると、地下鉄の場合、非常用ハシゴは乗務員室、駅のほか、線路上でも数百メートルおきに設置。また、車両の座席(ロングシート)は、座面の裏側がハシゴにもなるという。「車内(客室)は安全でーす。係員の指示があるまで、そのままでお待ちくださーい」線路上に現地対策本部の人間(駅員、技術区員、地域防災ネットワークなど)及び消防隊が増え、多くの乗客は一刻も早く客室を出たい。一番落ち着かない状態だと思う。乗客を助ける人々は、その心理をつかんでいるかの如く、肉声及び拡声器でトンネル内を響かせる。

14時44分、現地対策本部と消防隊の一部は、重傷以上の乗客を担架に乗せ、センター中央(茅場町)まで運ぶ。次に乗務員室から車内の軽傷者2人を下ろす。一方、現地対策本部では約10人が打ち合わせを行ない、現地対策本部長らが今からやることについて指示を出している様子だ。14時49分、先頭車の貫通扉、車体側面の乗降用ドア2か所の計3か所が係員の手により開けられた。前者は乗務員室に備えつけられている非常用ハシゴ1基、後者は持参した非常用ハシゴ2基をそれぞれ訓練車に架け、避難誘導の準備を行なう。いずれも折りたたみ式の手すりがついているが、持参用は両側に対し、乗務員室用は右側しかないので、左利きの人や、足に不安のあるにとっては不親切に映るかもしれない。また乗客の中に小さな子供がいた場合、片側だけでは心許ないが、手すりの有無に関係なく、係員が敏速に抱きかかえて下ろすだろう。

訓練車の前に担架を載せた線路走行用の白いカートが姿を現した。前出の作業員によると、避難誘導時に車椅子の乗客を乗せるなどの救護用搬送台で、各駅に備えているという。

すべての軽傷者が消防隊に付き添われて前へ歩いたあと、避難誘導の準備が整い、ついに"無傷"の乗客が客室から出られるときがやってきた。時刻は14時59分、地震発生設定時刻から約40分たつ。 準備が整い、先頭車の貫通扉、車体側面の乗降用ドア2か所、計3か所に分けて乗客が降り、センター中央(茅場町)へ向かう。現地対策本部社員と消防隊数人はロープを持ち、伝う形で乗客を誘導し、さらに線路脇を歩かせている。係員は「隧道(トンネル)内、段差がありますので、足元に御注意ください」と乗客に注意を促す。実は「ロープ」と「線路脇」は、避難誘導を行なううえで非常に重要だ。

前者は先述した乗客の誘導に加え、安全の確保が考えられる。参考までに、東京メトロ全9路線のうち、銀座線と丸ノ内線は頭上にパンタグラフと架線がなく、線路脇に第3軌条を敷設し、直流600ボルト(将来は750ボルトに昇圧予定)の高圧電流を台車に装備させたコレクターシュー(「集電靴(しゅうでんか)」ともいう)で集電しながら走る。第3軌条に誤って触れると感電の恐れがあり、最悪の場合は死に至る。仮に両線の線路上を歩いて近くの駅まで避難する場合は、その反対側を歩かせるだろう。後者は事故やけがの防止が考えられる。地下鉄のレールは、おもに「バラスト(砕石)の上に敷設」、「コンクリートの地面に直接敷設」、「コンクリート地面に枕木を載せたあと敷設」する。区間によっては途中で敷設方法が異なることがあるほか、線路内に誘導無線のケーブル、ATO(Automatic Train Operation device:自動列車運転装置)やTASC(Train Automatic Stop Control system:定位置停止装置)の車上子などが取りつけられていることもあり、訓練の様子から線路内歩行を極力最小限にとどめていることがうかがえる。

■駅も万全の態勢

乗客はセンター中央(茅場町)のホームへあがり、改札を出る。改札外のスペースは一時避難所に充てられており、駅員は乗客にペットボトルの水を渡す。改札付近では帰宅困難者向けに青のビニールシートを敷き、休息できるようにしている。無論、体調がすぐれないときは、ここで休んでも構わない。

東京メトロでは非常時に備え、全駅に水、ブランケット、簡易トイレ(大用、小用とも完備)などを約10万人分用意(注、駅によって常備されている数は異なる)しているほか、災害発生時にエレベーター内で閉じ込められた場合は水などといった非常用品を格納している。なお、駅の避難は一時的なもので食料はあまりない。そして、災害の状況によっては、一時避難所から本避難所へ移動することもあるという。参考までに、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生した2011年3月11日14時46分以降、東京メトロは全線の線路点検などで列車の運転を見合わせたときは、駅停車中の客室を開放し、乗客が坐って休める態勢をとっていた。列車が動けない状況でも駅に問題がなければ、客室も一時避難所となるのだ。

■設備点検と復旧作業

約15分で乗客約140人の避難誘導を終えると、今度は設備点検などにあたる。現地対策本部長の指示により、乗務員は運転設備及び、客室内乗客の有無を確認する。乗客はすでに一時避難所へ移ったとはいえ、"全員が移動した"という認識は1人も持っておらず、駅員とともに「誰かいますか」と声を出しながらチェックを行なう。また、運転士のみ乗務員室の非常用ハシゴ1基を収納する。駅員は先述した客室内乗客の有無確認及び、乗降用ドアに設置された非常用ハシゴ2基を取り外す。技術区員は脱線状況の確認や、列車を動かすうえで重要な設備の目視点検を行なう。地域防災ネットワークは"乗客が完全にいない"という確認がとれるまで待機する。

行動開始から数分後、技術区員から報告が入り、軌道や通信設備には支障がないこと、脱線した第2車両の台車は復旧後、自力で走行できること、そして、脱線の影響で剛体架線を支える支持碍子(がいし)1個の破損が確認され、交換作業が必要など、あわただしい。現地対策本部長は冷静に復唱して確認をとったあと、線路上に設けられた電話で指令所に連絡する。ほどなくして、駅員、運転士の順に報告が入り、現地対策本部長は先述と同じ手順で対応した。乗客が1人もいないと確認されると、地域防災ネットワークと一部の駅員はここで解散し、センター中央(茅場町)へ向かった。ここから先は復旧作業となる。本来は国土交通省の運輸安全委員会による現場検証実施及び現場保存の解除を経て、脱線した列車の復旧作業が行なわれるが、時間の関係や、訓練車が脱線していないこともあり省略した。前出の作業員によると、地下鉄のトンネル内で車両が脱線した場合、大破といったひどい状態ではない限り、1~2時間で線路上に戻せるそうだ。支持碍子の交換作業は、剛体架線に流れている直流1500ボルトの高圧電流を止めてもらうことから始まる。現地対策本部長が指令所に連絡し、饋電(きでん)停止(0ボルト)の確認をとったあと、電気部4人に支持碍子交換の指示を出す。碍子1個の復旧に要する時間は約30分だという。

日比谷線電気区の首席助役によると、剛体架線は5メートル間隔で支持碍子が設置され、構築と架線を電気的に区分しているという。今回の訓練では、脱線した第2車両のパンタグラフ損傷により、支持碍子1個の交換が生じたという想定である。支持碍子が1個でも壊れてしまうと、剛体架線の支持点がなくなってしまい、垂れ下がって列車の運行に支障をきたす。

作業員は変電器を使い、剛体架線に直接当てて饋電停止の確認したあと、4人中3人がハシゴで訓練車の屋根に登る。転落防止のため、屋根上では安全帯を剛体架線にひっかけて作業を行なう。線路上に残った1人は部品などの受け渡し役を務める。

屋根上の作業員は2人が剛体架線を支え、1人が支持碍子の交換にあたる。その作業に要した時間は約10分。3人が屋根から下りたあと、細部にわたる点検の末、15時48分に脱線復旧作業が滞りなく終了した。

■参加した報道陣は約10人

今回、初めて鉄道の訓練現場を取材させていただいた。訓練線は模擬トンネルと地上が混在するとはいえ、地下鉄は基本的にトンネルという密室同然の空間で、なおかつ見通しが悪い環境の中、救出する側、救出される側の冷静で迅速な行動により、取材時間は2時間30分の予定が1時間50分に短縮された。今後も総合研修訓練センターで様々な研修や訓練を積み重ねると、"訓練時間のさらなる短縮イコール災害発生時のより迅速な対応"が期待できよう。残念なのは報道公開に参加した取材陣が約10人で、来賓の数より明らかに少ないこと。スケジュールや紙面(誌面)の都合もあるだろうが、世界各国で毎年大地震が発生し、政府が発表した首都圏直下型地震や南海トラフ地震などがいつ起きてもおかしくないのだから、"災害に対する各社の取り組み"をくわしく報じ、実際発生した場合の混乱を防ぎ、死傷者を1人も出さないのがジャーナリズムの役割ではないだろうか。

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