「命(ぬち)どぅ宝」これは琉球の言葉で、"今、生きている命を大切にしなさい"という意味である。私はこの言葉を重く受け止めているし、命の尊さもわかっているつもりだ。 命の尊さを知るきっかけとなったのは、1984年秋、私のクラスメートの男子が病死したからである。

「命(ぬち)どぅ宝」

これは琉球の言葉で、"今、生きている命を大切にしなさい"という意味である。私はこの言葉を重く受け止めているし、命の尊さもわかっているつもりだ。

命の尊さを知るきっかけとなったのは、1984年秋、私のクラスメートの男子が病死したからである。

朝、教室に入ると、彼の机には花瓶が置かれていた。そこには花が数本立っており、"なにかあったのかな?"と疑問を感じていた。その後、担任の教師が前夜に亡くなったことを告げると、みな、無言となった。

あくる日、ほかのクラスは午前中で授業を切り上げ、私のクラスと教師陣は葬儀に参列した。私が初めて参列した葬儀で、同級生になるとは想像すらしていなかった。天候は晴天で、足取りは重い。

彼の変わり果てた姿と面会することはなかったが、遺影のモノクロ写真が悲しみを深くさせた。その頃、大人たちは焼香をあげている。当時、子供だったせいか、我々はただじっとしているだけ。クラスを代表して、別の男子が最後のあいさつをした以外、みんなうつむきっぱなしだった。

葬儀が終わり、小学校に戻る。ローカル線の踏切を渡ったとき、天候が曇っていることに気づいた。あの日のことは一生忘れることはない。私の人生において、初めて世の中の残酷さを味わったのだから。

あれから30年、彼は生きている時間よりも、あの世にいる時間のほうが、はるかに長くなった。時が進むのが早い。

余談だが、2001年に『ちゅらさん総集編』を初めて見たとき、上村文也の兄、和也が病気のため、中学1年生という若さで亡くなるシーンを見て、あのときのことが頭をよぎった。

前置きが長くなったが、1997年から2011年まで毎年3万人以上が自殺で人生の幕を下ろした(参考までに2012年は27,858人、2013年は27,195人)。深刻な社会問題で、一時は国民の平均寿命を下げてしまった。

原因の大半はリストラにより、次の職場が見つからないことによる精神的苦痛だ(「ノイローゼ」と言うのだろうか)。「リストラ」は10年以上も前から大人たちを襲わせている"病気"で、特効薬がないところをみると、"不治の病"と言わざるをえない。

"リストラ自殺"の以前は中学生がイジメを苦による自殺が相次いでいた。1994年、2006年は、この報道が多く、大半の学校は「イジメの事実を知らなかった」と答えた。無責任にも思える回答で、批判が多かった記憶がある。学校教育も荒廃の道をゆくばかりで、キレる生徒、未成年の凶悪犯罪者増加。大人になれば"荒れる成人式"になるなど、日本はどんどんどんどんダメになってゆく。

なぜ、イジメを苦に自殺という道を選択しなければならないのか。これではイジメている側の思うツボで、負け犬ではないか。

「闘争心を出せ!! 負けず嫌いになれ!! やられたら、やり返せ!!」

と私は言いたい。度を越えない限り、イジメている奴を殴ったり、蹴ったりするのは悪いことではないはずだ。しかし、教師やPTAなどはあっさり暴力と受け止める姿勢は疑問で、なんでもかんでも話し合いによる解決に導こうとしているのは、私には理解できない。

実は私自身、命の尊さをわかっているにもかかわらず、自殺を考えたことがある。

それは1999年、仕事が見つからない日々が続いていた。原稿を出版社に持ち込んでも使ってくれないし、生活資金を確保するため、モノ書きとは無縁の仕事を探しても雇ってくれない。はっきり言えば、雇ってくれない側にも問題がある。「わざわざ来てやったのに、なんで雇わないんだ」と怒りをあらわにしたいことも何度かあったが、いつしか疲れに変わる。やがて、仕事を探す気力もなくなる。1人暮らしで、伴侶(はんりょ)がいないから誰も支えてくれない。心身はボロボロだった。

自殺するにせよ、どうすればいいのか、わからない。電車に飛び込めば、遺族に多額の賠償金が請求されることも知っているからできない。高所恐怖症なので、ビルの屋上からも飛び下りることもできない。さらに首を吊ろうとしても、吊る場所がない。

自殺をしなかった最大の理由は周囲に気づかれてしまったことである。その後、限定ながら、3か月間仕事をしたのはいいが、契約が終了すると失業者に戻り、再び仕事が見つからない日々が続いた。夜も眠れず、気がついたら朝になっていた。生活のリズムも狂い、朝寝て昼起きることもあった。

それを矯正すべく、街へ行くまではよかったが、営団地下鉄(現・東京メトロ)東西線に乗ったら、中野―西船橋間を1往復熟睡し、気がついたら駅の係員に起こされた。都内の図書館に立ち寄れば、読書中に居眠りをして、職員に起こされるなど、邪魔者扱いされ(当時はそういうふうにしか思えなかった)、生きてゆくことに自信がなくなり、"これから先、必要としてくれることはあるのだろうか?"と考えると、つらくなった。

当時、池袋と下関で、無職の男がムシャクシャしていることを理由に通り魔事件を起こし、いずれも殺人容疑で逮捕された。正直言って、ウサを晴らせる人がうらやましかった。もちろん、犯罪とわかっているから、やらなかった。なぜならば、犯罪をやってしまえば、私を支えた方々を裏切ることにもなるからだ。

私には相談できる相手はいる。しかし、場所は遠いし、自分の実情を知られたくない思いから、閉じこもりっぱなしのまま、秋を迎えた。やっとの思いで雇われたが、順風満帆に生きている人には、たぶん私の苦しみはわからないだろう。

雇ってくれた企業のおかげで、どうにか生きることができた。在職中、いつリストラされるかわからないし、このまま安住するつもりもなく、プロのフリーライターとして一生を過ごしたいと考えていた。当時、ライターは未知の世界で、年収はどれだけなのか、はっきり言ってわからない。人々の支援や私自身が失態をおかさなければ、妻子を養っていけるだけの稼ぎができるのではないかと思っていた。

ある番組を見ると、自殺をするぐらいなら、自己破産をしたほうがはるかにいいという。費用は3万円近くかかるが、自殺をするとデメリットが多く、住んでいたアパートなどは、遺族に家賃を請求することもあるという。自己破産なら、ブラックリストにのり、クレジットカードが10年間新規作成できないことぐらいで済む。

自殺を考えたことのある私が言う権利や資格はないかもしれないが、世の中には生きたくても生きられない人々が沢山いる。長生きしたくても、できない人々も沢山いるのだ。健康でいられる私たちは、しあわせであると共に、そういう人々の分まで、長く生きなければならない使命があるのではないか。また、喫煙は長い時間をかけて、自殺行為に走っているようなもの。一時期、女性喫煙者の増加、患者の命を預かる医療関係者も煙草をふかしていると聞いたことがある。このような医者が多いと、患者側にとっては安心して治療できない。

「生きてるって、楽しいさぁー」

『ちゅらさん2』最終回のラストシーンで、"えりぃー"が言っていた言葉だ。世界中すべての人々が心から、そのセリフが言えるような環境をみんなで作り合い、自殺のない世の中を目指してゆきたい。

★備考

(この記事は、岸田法眼のRailway Blog.「自殺」から転載しました。転載に際し、加筆、修正を行なっています。)

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