巨人時代の木田優夫投手

石川ミリオンスターズ(BCリーグ〔プロ野球独立リーグ〕)の木田優夫投手兼ゼネラルマネージャーが現役を引退した。記録よりも記憶に残る投手で、巨人時代は"珠玉のストレート"を武器に、リーグ優勝4回、日本一1回にそれぞれ貢献した。巨人は1986年秋のドラフト会議で、木田優夫投手を1位指名した。背番号は47。187センチ(プロ入り後、1センチ伸びた模様)の長身から投げ下ろす剛速球が武器だったが、制球力に難のある投手だったと記憶している。
時事通信社

石川ミリオンスターズ(BCリーグ〔プロ野球独立リーグ〕)の木田優夫投手兼ゼネラルマネージャーが現役を引退した。記録よりも記憶に残る投手で、巨人時代は"珠玉のストレート"を武器に、リーグ優勝4回、日本一1回にそれぞれ貢献した。

■剛速球で打者をねじ伏せる

巨人は1986年秋のドラフト会議で、木田優夫投手を1位指名した。背番号は47。187センチ(プロ入り後、1センチ伸びた模様)の長身から投げ下ろす剛速球が武器だったが、制球力に難のある投手だったと記憶している。

木田投手はプロ入り3年目の1989年、初めて1軍キャンプメンバー(当時は前半グアム、後半宮崎で実施)に選ばれた(1・2年目は1軍の登板がない)。藤田元司監督は木田投手に対する期待が高く、オープン戦の緒戦(横浜大洋ホエールズ戦〔現・横浜DeNAベイスターズ〕)に先発登板させたが、プロの洗礼を浴びた。

私が木田投手の登板を初めて見たのは、甲子園球場での阪神タイガース戦(オープン戦。テレビ中継)だ。147km/hのストレートは伸び、キレとも抜群で、速さが際立っていた。"150km/h超えてんじゃないの?"と思わせるほど威圧感があった。

開幕1軍を果たすと、当初は中継ぎを務めていたが、桑田真澄投手が足を突き指するアクシデントに見舞われ、先発登板を回避することになった。首脳陣は代役として、木田投手を指名した。

4月下旬、東京ドームの中日ドラゴンズ戦でプロ入り初先発。ストレートとカーブだけで恐竜打線を抑え、プロ入り初完投、初勝利を記録した。その後も先発やリリーフで活躍したが、右肩痛の影響で、1989年は8試合の登板にとどまった。

■フォークのマスターで飛躍

プロ入り4年目の1990年、木田投手はフォークをマスターし、投球フォームもセットポジションに固定した(セットポジションに固定する投手の多くは、制球力の向上を目的としている)。

オープン戦でフォークを試すと、長い指も相まって、ストンと落ちた。これには相手打線もきりきり舞い。前年のオープン戦とは異なり、完璧な内容で2年連続の開幕1軍入りを果たす。

開幕2戦目となるヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)戦で、2番手として登板。試合は2試合連続の延長戦となり、木田投手がサヨナラホームラン(プロ入り初安打でもある)を放ち、本人、チームとも波に乗った。

この年、巨人は9月上旬にリーグ優勝。木田投手は先発、抑えにフル回転し、12勝8敗7セーブ、182奪三振を記録した。今のプロ野球では考えられない起用法だが、藤田監督は"エースは「先発」と「抑え」の二刀流"というのが持論と思われる。前年(1989年)は槙原寛己投手がその役割を担い、前半戦だけで12勝4敗4セーブ、防御率1.79の好成績をあげていたが、後半戦は半月板損傷のため、戦線離脱を余儀なくされた。

さて、木田投手はこの年、『月刊ジャイアンツ』誌(報知新聞社刊)にて、日本のプロ野球選手では初と思われる、「160km/hのストレートを投げたい」という夢を打ち明けた(当時、日本人で160km/hのストレートを投げる投手は誰もいない)。木田投手にとって、世界で初めて160km/hのストレートを投げたノーラン・ライアン投手は、あこがれの存在なのだ。

■最速156km/hのストレート

1993年より、長嶋茂雄監督2度目の就任とともに、木田投手の背番号も47から19に変わった。先発とリリーフ(抑え、中継ぎ)、どちらもこなす役割は変わらなかった。

この年、木田投手は自己最速の156km/hをマークした。橋本清投手のプロ入り初勝利がかかった試合に抑えとして登板し、いつも以上に気合が入っていたという。

木田投手にとって不運だったのは、先発、リリーフ、どちらにも固定されなかったことだ。先発は斎藤雅樹投手、槙原投手、桑田投手の"3本柱"が中心に加え、1993年夏から橋本投手から石毛博史投手につなぐ"勝利の方程式"を確立した。いずれも木田投手の名はない。

石毛投手が大阪近鉄バファローズ(現在は、同球団とオリックスブルーウェーブが合併した「オリックスバファローズ」)に移籍した影響で、1997年開幕当初は木田投手が抑え専任となる。"珠玉のストレート"を投げる男にはうってつけの役割に思えた。しかし、シーズン途中から中継ぎにまわり、さらに右ひじの故障で手術を受けることになった。

この年、木田投手は来季の年俸に納得がいかず、保留を続けて越年した影響があったのか、1998年1月、オリックスブルーウェーブとの交換トレードにより、移籍した。

■46歳で引退

オリックスブルーウェーブに移籍してからは、波瀾万丈の野球人生だったと思う。フリーエージェント宣言でメジャーリーグに移籍、日本球界復帰、アメリカ球界復帰など、いくつものチームに所属した。2006年以降は、東京ヤクルトスワローズ、北海道日本ハムファイターズでプレーしたのち、2013年から石川ミリオンスターズ(BCリーグ)に移った。

現役最後の登板は、2014年9月14日の群馬ダイヤモンドペガサス戦で、9回1イニングを3者連続三振に斬った。奇しくも木田投手あこがれの人、ノーラン・ライアン投手と同じ46歳で引退した。

★備考

木田優夫投手(巨人)

木田優夫投手

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