"日本テレビ隆盛の原点"といえる逸見政孝さん

1994年、日テレが視聴率年間三冠王を獲得し、ライバルのフジテレビに勝った。その背景には...

この20年間、日本テレビ(以下、日テレ)は「年間視聴率三冠王」に何度も輝いており、"常勝"を築き上げたといっても過言ではない。その原点は逸見政孝さんだと思っている。

■逸見さんを高く評価していた日テレ

逸見さんは1988年3月末でフジテレビを退社し、翌日から三木プロダクション所属のフリーアナウンサーとして独立した。当時のフジテレビは数年連続で「視聴率三冠王」に輝く全盛期の真っただ中。『笑っていいとも!』や『オレたちひょうきん族』の大ヒット、アナウンサーをバラエティー番組に出演させ、タレントなみの人気を得るなど、なにをやっても成功していた感がある。

一方、日テレはTBSに次ぐ視聴率第3位のテレビ局だった。

巨人戦で安定した視聴率を稼ぎ、東京からニューヨークを目指す年1回実施の『アメリカ横断ウルトラクイズ』、刑事ドラマの『太陽にほえろ!』や『あぶない刑事』が大ヒットしていた。しかし、バラエティー番組は『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』を除き、パッとしていなかった。特に水曜日のゴールデンタイムについては、視聴率が2ケタにも届かず「魔の水曜日」と言われていた。

視聴率の現状にもがき苦しむ日テレは、フジテレビの退社が決まっていた逸見さんに注目し、1988年4月から月~金曜日生放送の新番組『追跡』の司会に起用する構想を立てていた。しかし、その前の時間帯に放送される報道番組『FNNスーパータイム』の続投が決まっていたため、やむなく断念した(逸見さんは1989年3月で同番組を卒業)。

それでも日テレはあきらめていなかった。バラエティー番組のプロジェクトチームを作り、新しいクイズ番組の司会に"逸見さんを起用したい"と考えていたのだ。

実は三木プロダクションの三木治社長も"ゴールデンタイムに、逸見政孝司会のクイズ番組を実現させたい"という強い想いがあり、その実現に向けて奔走していた。

ところが、その実現には大きなハードルがあった。フジテレビは三木社長に、1年間他局でレギュラーの仕事をとらないよう要望していたのだ。三木社長はそれを受け入れるしかなかったが、自著『天国へのメッセージ』(廣済堂出版刊)を拝見する限り、納得いかない面もあったようだ。

日テレが全社的に総力をあげた新しいクイズ番組、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』は1988年10月、水曜20時台の放送が決まり、三木社長はフジテレビから受けていた要望を暗に蹴った。それは逸見さんの才能を誰よりも認めていた三木社長のほか、"フジテレビの野放図の明るさを採り入れたい"という日テレの情熱がそうさせたのだろう。

社運を賭けた『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の初回視聴率は、"御祝儀相場"の12.7%でまずまずの数字を残していたが、2回目以降はひとケタに転落してしまう。

しかし、年が明けた1989年、出演者やスタッフが自然に"番組慣れ"したのか、視聴率が上昇し始め、プロ野球シーズンに入ってからも4月には15%、シーズンオフの12月には大台の20%を越えた。『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』は、「魔の水曜日」を打破しただけではなく、日テレの看板番組に君臨していったのである。

その後、日テレは『どちら様も!! 笑ってヨロシク』、『マジカル頭脳パワー』というクイズ番組を世に送り出し、いずれも好視聴率をマーク。平成初期の日テレは"クイズ番組の黄金期"といえよう。

■歌番組の概念を変えた『夜も一生けんめい。』

1990年4月、『夜も一生けんめい。』がスタート。土曜23時台の放送で毎回ゲストを招き、前半はトーク、後半はライブという内容だ。

今までの歌番組とは異なり、司会者も歌う。それも相当な音痴をあからさまに披露し、スタッフの爆笑を誘った。『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』とは異なり、観客を入れていないので、スタッフが笑いをこらえきれないところが斬新に聞こえてくる。スタッフも一視聴者として収録に臨んでいたのだろう。その感覚がテレビの視聴者にもウケたと思う。

番組開始当初、逸見さんはぎこちなかったそうだが、美川憲一氏との出会いにより、ファッション面も"改革"。この番組によって逸見さんのサラリーマン気質が完全に抜けたようで、派手な服を違和感なく着こなしたほか、ときには大いに羽目を外したメイクで共演者、スタッフ、視聴者を笑わせた。

『夜も一生けんめい。』の成功により、土曜23時台の視聴率が2~3%から大幅にアップしたほか、スペシャル版として『芸能人ザッツ宴会テイメント』も放送された。

■ついに視聴率年間三冠王を獲得したが

1991年4月から逸見さん日テレ3本目の番組として、『いつみても平平凡凡』が日曜朝にスタート。翌1992年3月から『いつみても波瀾万丈』へ変わり、ゲストの半生を紹介及び語る番組にリニューアルした。

日テレはバラエティー番組が次々とヒットしたこともあり、フジテレビとの視聴率争いが激化。1994年、ついに日テレが視聴率年間三冠王を獲得し、ライバルのフジテレビに勝った。しかし、逸見さんの姿はなかった。

逸見さんは日テレの視聴率アップに大きく貢献したばかりではなく、人気司会者としてテレビ界を牽引する存在となっていたが、1993年1月の検査で胃ガンが見つかってからは闘病生活を余儀なくされた。

当初は十二指腸潰瘍と発表されていたが、胃ガンが再発し、同年9月6日(月曜日)に記者会見を開き自ら公表。翌日、東京女子医大病院に入院し、生還に向けて闘っていた。しかし、本人や周囲、視聴者の願いは天に届かなかった。同年12月25日(土曜日)12時47分、48歳の若さで遠いところへ行ってしまったのだ。あれから23年たった今も脳裏に焼きついている。

私は逸見さんの影響を多大に受けた。テレビだけではなく、1994年1月に買った逸見さんの著書、『新版 逸見政孝 魔法のまじめがね-ブラウン管は思いやり発信局-』(ネスコ刊)は、本屋さんにかけてもらったブックカバーがボロボロになるまで読み返した。

職種は異なるが、逸見さんがいなければ、同じメディアの世界に飛び込むことはなかったかもしれない。

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