種村直樹氏をしのぶ

■100歳過ぎても旅をしたかった 鉄道著述界の第一人者、種村直樹氏が2014年11月6日20時43分、転移性肺ガンのため、黄泉(よみ)の国へ旅立った。78歳だった。

■100歳過ぎても旅をしたかった

鉄道著述界の第一人者、種村直樹氏が2014年11月6日20時43分、転移性肺ガンのため、黄泉(よみ)の国へ旅立った。78歳だった。

種村氏は1936年3月7日、滋賀県生まれ。京都大学卒業後、毎日新聞社に入社し、記者として腕をふるった。1973年4月1日、同社を退社してフリーライターに転身。日本初の鉄道専門ライター、「レイルウェイ・ライター」として、数多くの作品を発表した。特に"汽車旅"という分野においては、紀行作家の宮脇俊三氏と双璧(そうへき)をなす存在で、レールファンに多大な影響を与えた。

しかし、還暦を過ぎてからは、腸、くも膜下出血、胃ガン、消化器系、脳出血などの重病に見舞われ、入退院を繰り返す。本人は不撓不屈の精神で乗り越え、仕事に復帰。本人がライフワークと称する「日本列島外周気まぐれ列車」も2009年6月で完結させた。

2010年に再び倒れ、"今度も復帰されるはず"と信じた方々も多かったと思う。ある著書で「2036年3月、のと鉄道能登線九十九湾小木(著書発売後、同駅が廃止)からJR西日本阪和線百舌鳥まで100歳乗り継ぎ」の構想を明かしていたからだ。数人が参加を希望していたらしく、本人は"「読者との約束を果たさなければならない」という思いがあるはず"だと。

■種村氏と"誌面共演"させていただき、身に余る

私は2007年1月に『Yahoo!セカンドライフ』(すでに閉鎖)の選抜サポーター(コラム執筆)として、ライターデビューした。種村氏もその一員として参加されており、"同じ土俵に立てたんだ"と、感慨深い思いだった。「嬉しい」のではなく、「不思議」な気分で、個人のブログ以外で名をさらすのが初めてだったこともあり、プレッシャーもあった。出版社、編集プロダクション、新聞社など、出版業界の勤務歴がないので、右も左もわからない。"私の記事は大衆ウケするのだろうか?"と悩みながら記事4本を書き下ろし、掲載させていただいた。

その後、『プレジデント フィフティ・プラス「鉄道と旅入門」』、『「鉄道と旅」お宝図鑑』(以上、プレジデント社刊)、『鉄道ひとり旅ふたり旅』(枻出版社刊)で、掲載コーナーは異なるが、種村氏と"誌面共演"させていただき、身に余る。

■戸惑いの末

私が『Yahoo!セカンドライフ』の選抜サポーター就任時、単に「フリーライター」という肩書で、仕事をさせていただいた。現在は某社の"むちゃぶり"(掲載誌が届いたあとに知った)がきっかけで、種村氏と同じ「レイルウェイ・ライター」と名乗っている。無論、読者や関係者などの批判を覚悟の上だ。

当初、恐れ多い肩書きに戸惑いを覚え、某社に異議を唱えるべきか悩んでいた。ある日、仕事の打ち合わせで、初めてお会いする編集者(現在は退職され、転職)に掲載誌をお見せしたあと、相談した。すると、「いいじゃないですか」と微笑み、改めて私を歓迎していただいた。このひとことが今も心の支えになっている。

種村氏の著書や雑誌記事は、これからも燦然(さんぜん)と輝き続ける。

合掌。

【下記も併せて御覧ください】

・ソウルに通いながら、こう考えた。「レイルウェイ・ライター種村直樹さん逝去」

Yahoo!ニュース個人より転載)

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