『明日、ママがいない』問題について。作り手と受け手の想像力の相克

1/15(水)日本テレビのドラマ「明日、ママがいない」に熊本の慈恵病院から放送中止の要請を出すとの報道があった。まず騒動の論点整理。

1/15(水)日本テレビのドラマ『明日、ママがいない』に熊本の慈恵病院から放送中止の要請を出すとの報道があった。まず騒動の論点整理。

養護施設の描き方も、「職員が子どもに暴言を吐き、泣くことを強要するなど現実と懸け離れたシーンが多すぎ、誤解や偏見、差別を与える」と指摘した。これは三上博史演じる施設長が「泣いたものから食べていい」「おまえたちはペットショップの犬と同じだ」などと言い放つシーンとみられ、近く放送中止の要請と制作経緯の説明を求めるという。

ドラマ「明日、ママがいない」に中止要請 - 芸能ニュース : nikkansports.com

このドラマの放送をご覧になった児童養護施設の関係者の方々もまた違和感を表明している。

第一話放送時点で、こうした指摘を受けた部分は主に以下の2点に集約されると思う。

・主人公の女の子のニックネームが「ポスト」

・児童養護施設の描写が実態と乖離していて差別的

放送中止要請に対して、日本テレビは以下のように声明を発表している。

当社のドラマ『明日、ママがいない』について、慈恵病院が会見を行われたことは承知しております。なお、このドラマでは子供たちの心根の純粋さや強さ、たくましさを全面に表し、子供たちの視点から『愛情とは何か』をいうことを描く趣旨のもと、子供たちを愛する思いも真摯(しんし)に描いていきたいと思っております。是非、最後までご覧いただきたいと思います。

日テレ側は「最後までご覧いただきたい」 - 芸能ニュース : nikkansports.com

脚本を担当された松田沙也さんも、以下のようなコメントをTwitterで残している。

フォロワーから「公式(サイト)の掲示板やツイッターで、施設職員から強い違和感も書き込まれています。児童養護施設で暮らす3万人の子どもたちの受け止めも心配です。グループホームに何度も足を運び、職員の話を丁寧に聞いた上での脚本ですよね?」と質問され、松田さんは「はい、ご意見は頂戴しております。このフィクションを通して、まずは子ども達に興味を持ってもらうこと、そして彼女達が問題に立ち向かう姿を見た同年代の子どもたちにも少しでもプラスの感情を抱いてもらえればと思います」と返答。

日テレ抗議ドラマ 脚本家の思い「伝えたいことは作品をご覧頂ければ」 ― スポニチ Sponichi Annex 芸能

■一話だけでは判断は難しいが。。

まだ第一話が放送されたばかりの段階なので、作品全体として評することは難しい。映画で例えたら冒頭10分で判断しろというようなもの。作品全体については最終話まで見ないと判断できない。後の誤解を恐れずに第一話で提示されたものだけで書くとすると、このドラマは描こうとしているのは、主人公の女の子の台詞「今日はあんたが親に捨てれたんじゃない、あんたが親を捨てた日だ」に象徴されるような、子供たちが自らの努力によって幸せを掴む意志の強さを描くものであって、児童養護施設やこうのとりのゆりかごの実態にせまるというようなことではなさそう。

芦田愛菜さん演じるポストと自らをそう呼べ、とする主人公の女の子は計算高く里親候補の前で、彼らの理想の子ども像を演じてみせたり、計算高さと施設の小さい子の世話をしたりと面倒見のよさをみせる一話だけでも、様々な側面を演じ分けていて、さすがは天才女優。施設の実態はある程度戯画化してる分、この子供の持つ様々な側面が反面として強烈に真に迫る。

施設内の描写に関しては、当然あのようなことが法的に許されないのだから、実際の施設ではないだろうが、この方のツイートが端的に示すように、物語の導入部におけるアジェンダセットとして社会通念を戯画化するとああいう形の表現もあり得ると思う。

ポストというニックネームも、いじめで他人につけられたのではなく、子ども自ら名乗っているという点にポイントがあると思う。親がつけた名前を選択せずに、本当の幸せをつかむまでその出自に関わるものをニックネームを子供たち自らが選択するというのは、子ども側の主体性の表現の一環ということだろう。

子どもの視点と主体性。このドラマを見る上でポイントになりそうなのはこの2点かなと、第一話時点では思った。

■視点が変わればリアリティも変わる

さて、批判ばかりある作品かと言えばそうではない。個人的にはこの受け手側の意見の乖離が現段階では興味深い。

このドラマに関して、現実と乖離しているという観点から批判がなされ、中止要請まででているわけだが、施設出身者の中にはむしろリアリティを感じた、という意見もある。

リアリティの難しさ。視点が変わればリアリティも変わる。

施設で働く関係者の方は、擁護施設はあのような恐ろしい場所ではないと言い、出身者はどんな場所かわからない、最初に感じた不安感が表現されていた、と言う。ドラマの主旨は、制作側の言葉を信じれば、子供たちの視点に立って愛情とは何かを描くこと。とすると追求すべきリアリティは職員のリアリティか、それとも子ども視点のリアリティか。

特に現代ではリアリティは把握しにくい。一部では自分のTwitterのTLではこんな盛り上がっているのに、世間では違う反応におかしいと言う人がまだいるが、島宇宙化が進行して、人々のリアリティは分断している。制作側は作品と作る際にその事に留意しないといけないし、また受け手もそのことをきちんと自覚しないといけない。自分の半径5メートルのリアリティは果たしてある事象を代表できるか、また同じ半径内であっても視点を入れ替えたらどうなるのか。しかし、人はだれも自分以外の視点から語る術は持たないので、他人のリアリティに大しては想像力を用いるしかない。

このドラマを巡る問題は想像力の相克にあると思う。作り手は子どもの視点のリアリティをなんとかドラマの中で追求しようとしているが、批判側は大人の想像力で批判しているようにも見える。どちらもリアリティなので白黒つけることのできる問題ではない。

水島宏明さんもまた、この騒動は想像力の欠如からきていると仰っている。しかし作り手の想像力だけを問題にしている。

水島さんのこの記事では、あのドラマが施設の子どもが傷つく(と「思われる」ぐらいのニュアンスかな)という前提に立っているように見える。施設の子どもと言っても千差万別。確かに傷つく子もいるかもしれない、逆に勇気づけられる子もいるかもしれない。この記事はどんな「想像力」の前提で書かれているのか。

また水島さんは、太字で堂々と「誰ひとり傷つかずに済む放送を目指すべきだ」と結論づけている。これはハッキリ言って不可能だ。ハッピーエンドですら時と場合によっては誰かが傷つく。

極端な例で言えば、僕はトム・ハンクスとメグ・ライアン主演の「めぐり逢えたら」というハッピーエンドの映画でけっこう傷つく。ラジオで声を聞いただけの男性に心惹かれたメグ・ライアンが婚約者のビル・プルマンを捨てていくのだが、なぜ不器用だけどすごく良い人のあの人が特別の落ち度もなしに捨てられないといけないのかと。

自分のリアリティが簡単に通じる半径5メートルの世界の外に出れば、「誰ひとり傷つかずに済む表現」はあり得ない。それが表現者の責任だと言うなら、何もしないが正解になりかねない。

もちろんドラマの製作者たちが今回完璧な仕事をしたとは言えないかもしれない。(そもそも完璧って何かね)

しかし、受け手が製作者たちが何を意図して作っているかについての想像力もまた重要ではないか。差別を助長する意図で作ったとある種の「紋切り型」の批判はどういう想像力の前提に出てきているのか。自分の持つリアリティだけでは判断できない。受け手もまたフィクションを楽しんだり、また大切な教訓を得るためには想像力が重要。

このドラマが大切なメッセージを発することだできるのかどうかは、一話だけでは判断できない。やはり僕は最後まで見届けたいと強く思う。

作品全体が適切であったかどうかは最終話を見た後に改めて書きたい。

ところで、このドラマは日本テレビの見逃し視聴キャンペーンの対象作品の1つである。

今まで、テレビで何か大きな話題や騒動があっても多くの人は事後検証することができずに、議論が空中戦になることもしばしばあったが、こうして実際の作品にアクセス可能になっていることは大きな意味がある。

今回の騒動で、テレビの見逃し視聴サービスに大きな意義があることがはからずも証明されたと思う。

(2014年1月18日「Film Goes With Net」より転載)

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