「ダイビング・ベル セウォル号の真実」が見せる韓国社会の縮図

「連日、救助の知らせはニュースを通じて報道されていましたが、それが事実ではないことは、現場にいるとありありとわかりました...」

セウォル号の転覆事故は、韓国社会の未成熟さを露呈する事件として世界中に衝撃を与えた。

事故原因は過積載による重量オーバー、経験不足の三等航海士に操舵を任せていたこと、不適切な船の改造などがいくつものおかしな点が後に指摘された。

さらに事故後の乗組員が適切な避難指示をださず、あまつさえ真っ先に逃げ出すという信じられない事態も発覚している(最後まで逃げずに避難誘導に務めた乗組員もいたが、後に死亡が確認された)。さらにはその後の政府発表、メディアの報道も二転三転した。

当初は「368人が救助され、約100人が安否不明」と発表されたものが、数時間後には「約300人の安否が依然不明」となり、救助体制についても「救助作業員555人、ヘリ121機、船69隻」と発表されたが、乗客の家族の目撃証言では「作業員200人以下、ヘリ2機、軍艦・警備艇各2隻、ボート6隻」に留まっていたという。

この事件は多くの韓国の抱える多くの問題をあぶり出したが、本作「ダイビング・ベル セウォル号の真実」は特に報道や表現の自由に関しての問題を掘り下げた作品となっている。

というより、この作品が巻き込まれた事件そのものが韓国内での表現の自由の問題を投げかけることになった。

本作は2014年の釜山国際映画祭で上映される予定であったが、釜山市長の「政治的中立性を欠く作品の上映は望ましくない」との発言から上映中止を求め、行政による言論弾圧ではないかとの批判が巻き起こった。結局上映自体は行われたのだが、その後、映画祭の組織委員会失効委員長が更迭された。

監査の過程に問題があったとの理由での更迭であったが、これは報復人事ではないかとの批判が起こり、韓国の映画人が映画祭へのボイコットを呼びかけるなど大きな波紋が広がる結果となった。

本作は確かに中立的な視点とは言い難いが、ある側面からの事実も捉えているのは確かだろう。

映画の中心となるのは、ダイビング・ベルという潜水補助装置を持つベテランダイバーと彼を支持するイ・サンホ記者の2名。映画は彼らの側からセウォル号の行方不明者救出のゴタゴタを描いている。

一向に捜索が進展しない中、民間が開発した長時間の潜水を可能にするダイビング・ベルの投入の是非を巡って、行方不明者の家族と行政側の対立、ダイビング・ベルの効果を疑問視する政府側の妨害工作、主要メディアの報道と現実の食い違いなどが詳細に描かれている。

ボランティアとして駆けつけたダイビング・ベルの所有者、イ・ジョンインは売名行為ではないか、とのバッシングを受けてもいる。イ・ジョンイン氏は、善意で駆けつけたわけだが、救助活動に加わることができなかった。

映画は、その理由を海洋警察が自らの失態を隠すためだと指摘する。作品では、メディアや政府、警察関係者など多くの団体や個人がそうした保身的な言動に終始して、救助が遅々として進まない状況を現場の目線で捉えている。

本作はダイビング・ベルの実効性や効果、実績については多くが語られない。

客観的にどのような実績があるのか、よくわからないので、本当に効率よく救助ができるものかは不明ではあるが、実際に投入された際にベルに乗り込んだダイバーたちは、たしかに他のダイバーたちよりも長時間の潜水を可能にし、その有用性を認めるコメントを発している。しかし、実際には一度の投入では行方不明者を発見することができず、ベルの投入は失敗に終わり、いたずらに救助の現場を混乱させただけだと報じられた。

アン・ヘリョン監督は、イ・ジョンイン氏に向けられた批判は、本来なら海洋警察に向けられるべきだとインタビューで語っている。

ダイビング・ベルが撤退する過程で、イ・ジョンイン社長に浴びせられたメディアの集中砲火は、実際は海洋警察に向けられるべきものでした。

当局が責任を避けるためにスケープゴートとしてダイビング・ベルを矢面に立たせたのです。メディアは巨大な権力の情報操作に乗せられていく構造を浮かび上がらせることができなければ、真実に近づくことは難しい。

連日、救助の知らせはニュースを通じて報道されていましたが、それが事実ではないことは、現場にいるとありありとわかりました。ニュースや現場を交差させることで見えてきた真実が埋もれている現実に、怒りをあらわさなければいけないと思ったのです。

セウォル号沈没をめぐる「不都合」――独立メディア記者が問う報道と倫理 / 『ダイビング・ベル』安海龍(アン・ヘリョン)共同監督インタビュー | SYNODOS -シノドス-

本作は、釜山映画祭での上映中止を求める声が釜山市長から出されるなど、異例の事態となったことで大きく注目を浴びることになった。映画の中で描かれるメディアの報道姿勢の問題とともに、本作そのものが直面した問題も含めて韓国社会の表現の自由の危機や、事実を伝えようとしない姿勢を浮き彫りにした。

監督は、テレビなどはこうした姿勢の報道をしないので、映画が最後の砦だったと語る。

しかし、その映画を預かる映画祭までにも(結果的には上映されることになったとはいえ)行政の圧力があったということでもある。

本作は当時の現場の混乱を記録した意味で貴重な作品である。だが客観的な検証ではないという点は留意した方がいいだろう。

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