© 2015 Samer Muscati/Human Rights Watch
(ナイロビ)ケニアで2007年から2008年にかけて発生した大統領選挙後の暴力事件では、成人女性と少女数百人がレイプされた。被害者は心身両面できわめて厳しい状況にあり、貧困と社会的排除に苦しんでいると、ヒューマン・ライツ・ウォッチは本日発表の報告書で述べた。ケニア政府は、レイプ被害者への基本的な支援と救済策の実施を怠っている。
今回の報告書「黙ってこのまま死を待つだけ:2007年~08年のケニア大統領選挙後の性暴力事件被害者への補償問題」(104頁)は、大統領選挙後のレイプなどの性暴力について、被害者または目撃者の成人女性と少女163人と男性9人への聞き取りに基づき作成された。
ヒューマン・ライツ・ウォッチの調査により、インタビューに応じた被害者のほとんどが現在も治療を切実に必要としており、就労や就学が難しい状況に置かれ、貧困と飢えが深刻化していることが明らかになった。
政府は最近になり補償を約束したが、性暴力被害者と協議を行い、すべての支援を性暴力被害者の完全な参加を保証するかたちで設計すべきである。
「これだけ多くの人が健康を損ない、貧困にあえいで汚名を着せられ、政府の支援を受けるどころか、無視され、さまざまな場面で排除されていることに私たちはショックを受けた」と、ヒューマン・ライツ・ウォッチのアフリカの女性の権利上級調査員アニエス・オディアンボは述べた。
「ケニヤッタ大統領の最近の公約は、ケニアの2007年大統領選挙後の性暴力の被害者のニーズに対処するうえできわめて重要な機会である。」
物議を醸した2007年大統領選挙後の暴力事件では、与野党支持者による民族殺害や復讐、デモ参加者の取締りで警察による過剰な実力行使が発生した。1,133人が死亡し、約60万人が住んでいた土地を追われた。当局筋によれば、少なくとも900件の性暴力が発生しているが、これは低く見積もった数字である可能性が高い。
インタビューに応じた人の多くが、暴力事件のなかで激しくレイプされていた。4人以上の強かん犯による集団強かんが大半で、10人以上が関与した事例もいくつかあった。女性たちは銃や棒きれ、瓶などを性器に突き刺されたと話していた。多くが、小さな子どもも含む家族の目の前でレイプされている。成人男性と少年もレイプされたり、強制的に割礼や去勢されたりした。実行犯には民間人や民兵組織だけでなく、ケニアの治安部隊の隊員も混じっている。
「私は5人の男性にレイプされました。殴られ、股を広げられながらです」と、ンジェリ・Nさんは話す。尿や糞便漏れの原因となる瘻孔(ろうこう)を患い、トラウマとともに、今も足と背中に痛みが残る。「ものすごく痛かったです。今も尿漏れがします。とても恥ずかしい。」
ケニア政府は住む家や財産を失った人びとにわずかばかりの補償を行い、金銭と住居、土地を提供している。レイプなどの性暴力の被害者は多くの場で排除されており、特別な医学的ニーズなどへの対応はほとんどなされていない。
2015年3月にケニヤッタ大統領は、100億ケニアシリング(約11億5千万円)の基金を創設し、被害者への「修復的正義」を提供すると述べた。
もし被害者と被害者のニーズが適切に認識され、補償が国際的に優れた基準と実践に従って行われるのならば、この方針はレイプなどの性暴力被害者にとってきわめて重要な機会となると、ヒューマン・ライツ・ウォッチは述べた。ケニア政府には、緊急に医療を必要とする被害者の発見を最優先で行い、そうした人たちの自由かつ自発的な医療・心理社会的支援の利用を可能にする政策を定めることが求められる。
名乗り出た被害者は、加害者が訴追されるなかで被害者と認定されるかにかかわらず、存在と被害を認知され、補償を受け取り、そうした暴力を二度と受けないよう確実に保護されるべきだ。創設された基金は、政府による犯罪への責任免れに用いられてはならない。
暴行がもたらす精神保健への悪影響は生活を破壊してきた。ほぼすべての事例で、被害者は強烈な絶望、自己嫌悪、恥、怒り、悲しみなどを感じていることを詳しく話している。レイプ被害者として汚名を着せられることで孤独感が強まり、これらの感情は深まりがちだとも述べた。自殺を考えた人もいた。政府は被害者に十分な心理社会的支援サービスを行っていない。
成人女性と少女は、排除や孤立など、家族や社会のあいだでも問題を抱えている。レイプなどの暴行が直接の原因だ。多くが夫や家族から言葉による虐待や、身体的な暴行を受けている。
インタビューに応じた成人女性のうち、37人がレイプで妊娠したと述べた。多くが子どもを産んでいる。ケニアでは中絶が非合法で不道徳だと見なされているからだ。こうした女性たちは、産んだ子どもに複雑な、あるいは怒りの感情を抱きがちだが、子ども自身もまた汚名を着せられ、家族から拒否されて、言葉による虐待や身体的暴力を受けている。
子どもたちは出生証明書を得ようとする段階で差別される。母親が父親の名前を言うことができないからだ。政府などはこうした女性や子どもたちの存在、および特別なニーズをほぼ認知していない。これらも、法による正義を求め、補償を行う過程で対処されるべき事柄だ。
大統領選後の危機的状況下での性暴力で訴追された者はごくわずかである。「真実正義和解委員会」の報告書は2013年に完成しているものの、議会の承認が得られていない。同危機のなかでの警察官による性的虐待などの違法行為に関する調査結果は、これまでまったく公開されていない。
「ケニア政府は、大統領選後の性暴力事件被害者への責任を果たそうとしてこなかった」と、オディアンボ上級調査員は述べた。「被害者の苦しみを和らげるため、政府が補償を入念に計画し、実施することがきわめて重要である。」
報告書からの証言抜粋:
血が出て、全身が痛みに包まれていました。あとで尿を垂れ流していたことに気づきました。今日まで、気が休まった瞬間はありません。私の身体は以前と同じじゃありませんから。腹圧をかけると尿がもれてしまいます。力もでません。時々いやなにおいのおりものもあるし、下腹部が痛みます。背中もとても痛いです。仕事がきついときは、背中の痛みと排尿が辛すぎます。痛くて身体を曲げすらできないときもあるし、膝、足首、尻も痛いんです。排尿のときも痛いし、あそこ[膣]が痛むこともあります。膿も出ます。診療所にも行っていますが、全然症状は改善しません。痛み止めをくれるだけで、排尿の問題もおさまるだろうって言うんです。大きな病院にはお金がなくて行けません。恥にまみれ希望はありません。ただ座って死ぬのを待つだけです。
-- Apiyo P.(53歳)は4人の男から殴る蹴るの激しい暴行を受けたあとに集団レイプされた。夫は一連の暴力事件のさなかに殺害された。(シアヤ、2014年11月18日)
2008年1月5日のことでした。一般勤務部隊(GSU)の士官10人が自宅にやってきたんです。名前を聞かれたので全員が答えました。彼らは何も言わずに父の首をなたで切りつけ、父はその場に倒れました。私たちははたかれて、私は気を失ってしまったんだと思います。気がついたときはもうレイプされていました。私は16歳で[中略]姉は18歳でした[後略]。助けを外に求めることができるまで、横たわった父の遺体とともに3日間家に閉じこもっていました。私たちは父の遺体を置き去りにし、何も持たないで家を出ました。それから一度もあの家には戻っていません。住む場所はありません。私の姉はレイプで妊娠し、一児の母になりました。私も姉も学費が払えないので、学校に行くのをやめてしまいました。レイプが私に及ぼした影響はとても大きなものです。私の中に居座って、消えません[後略]。レイプの記憶と父の殺された光景が頭の中をめぐるので、なかなか寝つけなくなりました。いつも泣いています。自殺も考えます。自分には生きる価値がないように思えるから。
-- Achieng' Y. (ナイロビ、2014年11月14日)
彼らは私が金持ちで、富のすべてを独り占めにしながら彼らのコミュニティに暮らしていると言いました。それで教訓だと言って、私の娘ふたりを暴行し、レイプしたのです。大勢でした。それから私にも同じことをしろと言うんです。拒否した私を鉄の棒で殴り、歯が何本も抜けてしまいました[後略]。あごを割られ[中略]頭蓋骨にも少しひびが入りました。かなりひどいことをされました。彼らの妻として、私を同性愛者にしたんです。私の服を全てはぎ取り、もっていってしまいました[後略]。娘のひとりはレイプでHIVに感染し、2014年6月に亡くなりました。彼女はレイプ犯のひとりにばったり会ってしまい、そのショックから抜け出すことができなかった。もうひとりの娘は激しい暴行の末、毒の矢で撃たれました。足も切断され、どんどん衰弱して2015年5月に亡くなりました。
-- Mwangi N.(83歳)(ナイバシャ、2014年11月9日、2015年10月6日)
(娘の)ブルックリンを虐待し、自殺さえ試みました。ギコンバ(市場)に置き去りにしようとしたこともあります。私があまりに虐待したため、今や娘は学校の成績がとても悪く、ビクビクした子どもになってしまいました。私を恐れています[後略]。食に欠くときやなにかにつけ虐待していました。「お前が死ねば私はしあわせ。死んで私を解放してよ」と娘に言っていたものです。娘の左手首と右の太ももには、私がカミソリで切りつけたときの傷が残っています。娘が食べ物を欲しがることで私を傷つけないよう、彼女を罰したかったんです。1歳にもならないうちから暴力をふるっていました。でも全く気になりませんでした。
-- Adhiambo E.は17歳だった2007年12月にレイプされ、そのときに妊娠した娘を育てている(ナイロビ、2015年10月5日)
私がレイプされたあと、夫は変わってしまいました。同じ寝室で寝ることを拒むようになりました。かつては殴る蹴るのすえ、カレンジン民族の夫のところへ行ってしまえと言っていたものです。 「お前は役立たずだから死んだほうがましだ。お前に触ることさえできない」と私を嘲笑しました。家を追い出されたことも数え切れません。ショッピングセンターで女の子たちを誘って、家に連れて帰ってくることもありました。夫の家族にもレイプのことを話してしまったので、今や義理の家族も私をさげすんでいます。夫は今年(2014年)死にましたが、彼の兄弟が私の土地を狙っています。そうなったら、私はどこにも行くところがありません。
-- Nyawira P.(ナクル、2014年11月17日)
(2016年2月15日「Human Rights Watch」より転載)