毎晩残業していたら人生を棒に振る事になる理由

朝日新聞の伝えるところでは、「残業代ゼロ」月末へ攻防 働き方効率的に/長時間労働懸念との事である。

朝日新聞の伝えるところでは、「残業代ゼロ」月末へ攻防 働き方効率的に/長時間労働懸念との事である。

働いた時間にかかわらず、賃金が一定になる働き方をめぐる政府内の議論が、平行線をたどっている。推進派は「効率的な働き方ができる」と主張するが、厚生労働省は、働き手が「残業代ゼロ」長時間労働を強いられるとして、なお慎重な姿勢だ。今月末に方向性が出る見通しで、調整は大詰めを迎えている。

ネットでも、飽く迄局地的であるが正義の味方の仮面を被り「残業代ゼロ」を否定する意見が多数派の様に見受けられる。一方、私は毎晩残業する様な時間の使い方をしていたら、結果人生を棒に振る事になると考えている。今回はその理由について説明を試みたい。

■残業制度は高度成長時代のレガシー

戦後の日本の奇跡的な高度成長を支えたのは製造業である。銀行は日本国民から預金をかき集め、政府の産業政策に従い特定の製造業に傾斜配分し、これにより設備投資が可能になった。一方商社マンは全世界に散って一年に何足も革靴を履き潰しながら日本製品の輸出に貢献した。古き良き「日本株式会社」が輝いていた時代である。といっても、主人公は飽く迄製造業であり、金融や通商は脇役であった。当時の日本の現役世代の大半は製造現場に吸い寄せられ、人事・労務管理の制度設計が製造業仕様である事はやむを得ない。

ベルトコンベアーを使った生産現場では労働者の前を例えば1分間に10個の中間製品が流れて来る。労働者はこれに決められた部品を取り付ける。仮に1時間残業すれば600個に関してのアウトプットが確認出来る。要は、生産現場では労働の結果が可視化出来るという事である。一方、経営の立場からすれば繁忙期に備え余裕をもって従業員を雇用するより残業で対応する方が遥かに人件費を圧縮出来る。一方、労働者は残業代により収入が増える。従って、生産現場では残業制度は労使共に好ましい制度という事になる。

■加速する日本のパラダイムシフト

日本の貿易収支はずっと以前から赤字を継続している。貿易収支赤字の恒常化が意味するのは日本は最早「ものつくり」の国ではなく、作るより遥かに多くを消費する国になったという事である。この事を経常収支の視点で捉えると「貿易立国」から「投資立国」、GDPからGNIへのパラダイムシフトという事になる。これに併せ、国内産業も第二次産業(製造業)から第三次産業(サービス業)に移行せざるを得ない。当然、雇用において求められる人材の中身や社会システムもダイナミックに変貌せざるを得ない。残業の様な制度が日本経済成長のボトルネックになるといっても良いだろう。

■日本のホワイトカラーの何が問題か?

上述の通り、残業代の支給は本来工場労働者の様な時間当たりのアウトプットが可視化可能な職種に限定して実施すべきものである。しかしながら、日本の場合工場労働者を対象に設計した制度に本社勤務のホワイトカラーも無理やり押し込んでしまっている。従って、色々と矛盾、綻びが出て来るのも至って当然である。例えば入社3年目の若手社員であれば来るべき将来に備えるために何がしかの「スキル」を身につけねばならない。

しかしながら、具体的に何をすれば良いか? が自分の頭で思いつかず、結果大してやる事もないのに会社に居残り大切な時間を浪費してしまう。それでいて、残業代がしっかり支払われる制度というのは、若者に取って本当に問題が大きいと思う。無駄に会社に居残る事で、取り敢えず会社に貢献した様な偽りの満足感と残業代を得てしまうからである。

■ジョブディスクリプションとキャリアプラン

こういった具合に整理すると、矢張り日本企業の問題点は社員に対し明確にジョブディスクリプションを提示しておらず、一方、社員の方も自分が理想とするキャリアプランを勤め先に説明し、理解を求めると共に協力を要請する様なアクションを取っていない事だと推測される。新入社員は入社時に勤め先に対し、3年先(25才)、5年先(27才)、8年先(30才)になっていたい自分を率直に語り、キャリアプランを相談すべきだろう、

一方、企業は従業員に対しジョブディスクリプションを今少し明確にした上で、その対価として年俸を支払うといった企業風土に変貌すべきであろう。日本企業は今後今まで以上に人材を世界に求めざるを得ない。ジョブディスクリプションの明確化はその際の必要条件である。

■私の20代

こういった内容の文章を書いていて、振り返って見ると偶々かも知れないが私の20代はそれなりに充実していた様に思える。大学の同級生が内定を得ていた当時の総合商社、日商岩井(現双日)の人事部を紹介して貰い大学4年の時の10月1日に面談に出掛けた(1979年当時はこれが正規の就活解禁のタイミング)。実は人事部からはもっと早く会ってやるという返事を貰ったのだが、何となくインチキは嫌だと考え私の方から断った経緯がある。人事部との面談時に私の方から三つの希望を率直に説明させて貰った。第一は、20代前半での欧米一流大学への留学。第二は、国家プロジェクトへの参画。最後は、時代を代表する大型プロジェクトを担当する事であった。

結果をいうと、会社は私の望みを全て叶えてくれた。海外研修生に選抜されるためには5月と11月、年2回実施される社内試験に合格する必要があったが、幸いこれに合格し2年目の1月にドイツに留学した。留学を終え、帰国後必要な研修を受けた後当時のサンシャインプロジェクト(国家プロジェク)の西豪州褐炭液化プロジェクトに派遣された。更にその2年後本社に帰った時は、当時一番の花形部門であったエネルギープラント部の最も扱いの大きかった中東市場を担当する部門に配属された。1年目は流石に小型案件を担当。2年目は中型案件。3年目は念願の大型案件を担当させて貰えた。この時点で、就活時の私の希望は全て叶った事になる。

大型案件を担当出来る幸せを感じつつも、豊かな産油国ではなく貧しい非産油国に駐在し、国作りに協力したいという思いが強くなりODAの仕組みを一から勉強し、31才の時に中東最貧国のイエメンに3年半駐在した。そして、運にも恵まれ主要案件を独占し凱旋帰国する事が出来た。今更ながらだが、矢張り、やりたい仕事をやらせて貰うためには、その仕事を任す事の出来る人間になっておかねばならない。そのためには、学び、経験し、経験した事の意味を自分の頭で考え、体系的に整理し、常に企画や提案が出来る様にしておかねばならない。私は大した用もないのに会社に居残り残業代を請求する様な事は一度もした事はないし、そういう時間もなかった。

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