『エリジウム』-宿輪純一のシネマ経済学(10)

本作品が注目されているのは、映像もさることながら、監督が低予算で世界に衝撃を与えた名作『第9地区』のニール・ブロムカンプだからである。本作品が長編第2作目、しかも大作であるが、どちらも出身地の"南アフリカ"に根深くある格差問題がそのベースとなっている。

『エリジウム』(Elysium)2013年(米)

アメリカは国としての歴史が240年弱であることも関係してか、映画の題名にギリシア・ローマ時代の古典的な言葉を付けることが多い。『プロメテウス』などもそうであり、この『エリジウム』もそうである。エリジウムとは、ギリシア・ローマ神話で、神々に愛された者や英雄のみが死後に住める、地の西端にあるとする楽園のこと。楽園があるということは、逆に地獄もある。本作品は、まさにそんな映画である。

本作品が注目されているのは、映像もさることながら、監督が低予算で世界に衝撃を与えた名作『第9地区』のニール・ブロムカンプだからである。本作品が長編第2作目、しかも大作であるが、どちらも出身地の"南アフリカ"に根深くある格差問題がそのベースとなっている。

出演は、主人公にハーバード大学出身の秀才で、この役のために身体を鍛え、スキンヘッドにしたマット・デイモン、アカデミー賞女優のジョディ・フォスターなど名優がそろっている。また前作『第9地区』では切ない運命を背負った主人公を演じた、同じく南アフリカ出身のシャールト・コプリーも前回とは変わって非情な男として登場する。

時は2154年。地球は環境汚染と人口増加によって荒廃と混乱が加速し住める状態ではなくなっていた。ひと握りの"超富裕層"は豊かな生活を続けるため、地表から400キロ上空の宇宙空間に建造されたスペースコロニー:エリジウムに移住。明るい日差し、優しい緑、清浄な大気、日々楽しく暮らすことが出来る楽園、そのスペースコロニーを管理するのはデラコート(ジョディ・フォスター)という女性防衛長官であった。

地球に残された貧しい人々はエリジウムを見上げながら、 汚染や貧困のなかで生きるしかなかった。マックス・ダ・コスタ(マット・デイモン)はロサンゼルスのスラムに居住。孤児院育ちのマックスは、かつては犯罪に手を染めたが いまは過酷なロボット製造ライン工場で真面目に勤労。ある朝、通勤バスを待つ時に警備ロボットに反抗的な態度を取ってしまったマックスは腕を折られる。保護観察所に出頭すると同じ孤児院で育てられた幼なじみのフレイ(アリシー・ブラガ)と再会する。

次の日、マックスは人為的事故に遭遇し致命傷を負う。所長の命令で嫌々入った核融高炉で事故が起こり大量の照射線を浴びたのである。マックスに残ったのは、身体をかろうじて機能させる劇薬マイポロール数錠と"たった5日間"の命だけ。

自暴自棄になったマックスはニセのIDを腕に焼付け、エクソスーツと呼ばれるマシンを身体と結合させ、あたかもサイボーグのようなボディとなり、攻撃の標的を自分をこんな身体にした工場のCEOカーライルに定める。

そのころ、カーライルはエリジウムに向かいデラコートと密約を結んでいた。クーデターを起こそうというのだ。その時、新総裁となるのはデラコート。報酬はこれから200年間の契約延長。経営難に陥っていたカーライルはその提案に飛びつき、データを脳に保存して再び地球へと戻ってきた。カーライルを乗せたシャトルを追撃したマックス。攻撃され、フレイに助けを求めるしかなかった。彼女の自宅には白血病末期の幼い娘マチルダがいた。あらゆる疾病、あらゆる傷を治し、若ささえも持続させることが出来る最先端の"医療ポッド"は、このエリジウムにしかない。

脳にカーライルの情報をダウンロードしたマックスは、自分とマチルダの治療のためにもエリジウムへ飛行する。「これがあれば全システムを変えられる。"国境"を なくし、すべての人間をエリジウム市民にできる。これはお前の命を救うだけじゃない。すべての地球の人間を救えるんだ」。

この映画のテーマは「格差」である。日本でも、前政権では「格差是正」が政策目標となっていた。これは非常に難しい問題である。そういう意味では、この映画は共産主義に向かう革命ともみることができるのではないか。

一般的に格差問題は"所得"で考えられるものである。現在、様々な分野で低所得の方々への援助もずいぶん厚くなされている。また、最低賃金で働くよりも、生活保護を受けた方が、収入が大きいとも言われている。この援助が大きいと働く気力が失せてくるのもまた事実である。

格差の原因となるものは、"先天的"な時からのものと、"後天的"な自分の努力や挑戦によるものがある。「子孫に美田を残さず」という諺がある。後天的な自分の努力によるものこそ大事で、楽をさせるよりは、努力をしてこそ最終的に良い結果をもたらすということである。最初から決まっていては、努力する気は起らない。

「結果」としての格差よりも、「機会」としての格差を是正すべきで、豊臣秀吉ではないが、挑戦する機会こそ平等に与えられるべきである。つまり、格差是正のために、大量の補助金をあたえるよりも、平等で努力が報われる制度にした方が大事であると考える。その機会が与えられない固定的な社会制度こそ、格差の根源となっていると考えられる。

また、最近、海外の中央銀行では失業率と金融政策がリンクし始めている。しかし、最近では、単純な失業率ではだめで、その"質"を見ないとだめだとも言われている。要はパートタイム的な職も入っており、格差が広がるとのことである。この考え方を突き詰めると、米国の金融政策を転換させる目標は失業率6.5%といわれている。しかし、この質、すなわち格差の問題が注目されてくると、さらに金融政策の転換が遅れる可能性が高いと考える。

注目記事