河野談話はどこで「連合国の戦後処理」を含む問題へとすり替わったのか――従軍慰安婦と河野談話をめぐるABC

加藤談話が出された1992年7月から、河野談話の出される1993年8月のまでの間に、慰安婦問題はいつの間にか、対象と性格を異にするものになってしまっていることである。そして実は、どうしてこのように問題の性格が変わってしまったのか、当時の政府関係者がきちんとした形で説明したことは一度もない。

【従軍慰安婦と河野談話をめぐるABC 】

さて、前回述べたように、河野談話を考える上で重要だったのは、その道筋が1992年1月初頭の朝日新聞の報道からはじまる1週間足らずの間に「十分な調査さえ行われることなく」決まってしまったことだった。

混乱した状況の中行われた首脳会談で、日本側は繰り返し謝罪を行う一方で、二つのことを約束している。すなわち、この問題の真相究明と何らかの「誠意を見せるための」措置の検討である。実は日本政府は朝日新聞の報道からわずか3日後の1992年1月14日、既に「補償の代替措置」を検討することを公にしていた。こうして、慰安婦問題に対するその後の展開、つまり、河野談話からアジア女性基金への流れは出来上がってしまう、事になる。

首脳会談の後、日本政府は泥縄式に慰安婦問題に関する歴史的史料の発掘に取り組んだ。韓国政府に対して約束したからだけでなく、自らが行動するための歴史的根拠を確定しなければならないからである。こうして所蔵する史料をしらみ潰しに当たった日本政府は、1992年7月6日、127件の日本「政府の関与」を示す史料が発見された、との調査結果を公表する。とはいえ厄介だったのは、この時発表された史料の中に、当時の日韓両国世論が最も大きな関心を寄せていた問題、

すなわち、慰安婦の動員過程における日本政府の直接的関与を含む史料は含まれていなかった。日本政府は事態の沈静化を図るために、加藤紘一官房長官名にて談話を発表し、この中で加藤は再び「我々の気持ちを」示すための方法を「誠意をもって検討する」事を約束する。しかしながら、日韓両国の世論はもはや収まらず、調査結果は袋だたきに遭うことになる。こうして事態はいったん、暗礁に乗り上げることになる。

さてでは、結局、日本政府はこの問題をどう「解決」しようとしたのだろうか。このことを理解するためには、この時出された「加藤談話」の内容を、最終的に出されることになる河野談話と比べてみるとわかりやすい。加藤談話の表題は「朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する内閣官房長官発表」、内容も朝鮮半島から動員された慰安婦に関わるものに限定された形になっている。対して翌1993年8月に発表される河野談話の表題は「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」、内容も朝鮮半島のみならず、中国大陸や東南アジア諸国などをも含んだ広い地域から動員された人々を対象とするものになっている。

つまり、加藤談話が出された1992年7月から、河野談話の出される1993年8月のまでの間に、慰安婦問題はいつの間にか、対象と性格を異にするものになってしまっているのである。そして実は、どうしてこのように問題の性格が変わってしまったのか、当時の政府関係者がきちんとした形で説明したことは一度もない。

もちろん、その理由を想像することは出来る。その一つは既に慰安婦問題が韓国のみならず、日本による軍事占領などを経験した他の国々の関心をも集める問題となっており、その一部では訴訟も開始される事態になっていたからである。しかし、当時の関係者の回顧などから推測できることがもう一つある。それは韓国政府や日韓両国の世論から慰安婦動員過程における「強制性」の立証性を求められた日本政府が、調査対象の範囲を広げることによりこの問題を解決しようとしたということである。

実際、当時官房副長官を務めていた石原信雄は2006年のインタビューにて、この加藤談話への批判がきっかけで「沖縄やアメリカの公文書館など、海外にまで広げて、外務省は大使館と連携を取って、徹底的に調べ」ることにになった、と回想している。比喩的に言うなら、ストライクの入らないピッチャーがストライクゾーンを広げることにより、何とか野球になるように調整してもらったわけである。

重要なのは、意図的にせよそうでないにせよ、これにより結果として出される河野談話の性格が日韓間の関係を大きく超える存在となってしまったことだった。戦前の朝鮮半島は日本の植民地だったから、その戦後処理は基本的には日韓両国のみに関わる問題であり、両国間の外交的交渉により独自に解決することができる。しかしながら、それが旧オランダ領東インドなど、旧連合国地域から動員された慰安婦をも対象としたことにより、問題の性格は大きく変わってしまうことになった。その含意は二つある。一つ目は、旧オランダ領東インドにおける「スマラン事件」に代表されるように、朝鮮半島外の地域においては、慰安婦が「強制連行」されたことが明らかな事例が幾つか存在すること、そして、二つ目は、旧連合国地域においては、その「強制連行」有無の判断が連合国による戦後処理の一環として行われていることである。

それは言い換えるなら次のようになる。河野談話に至るまでの過程で「ストライクゾーン」を広げた結果、確かに慰安婦問題における「強制連行」に関わる事例は確保できた。しかしながらこの結果、同時に日本は慰安婦問題における議論に旧連合国と、彼らによって行われた国際軍事裁判の結果をも含むこととなってしまった。このことの意味はやはり「スマラン事件」の例を考えればわかりやすい。この事件における日本軍によるオランダ人慰安婦の強制連行の認定は、バタビアに設置された臨時軍法会議によって行われ、結果、日本人元軍人の一人に死刑が宣告されている。典型的な旧連合国による国際軍事裁判の結果の一つである。

そして、ここで忘れてはならないことは、日本政府はサンフランシスコ講和条約において、これら旧連合国が行った一連の国際軍事裁判の結果を「受諾」する義務を負っていることである。もちろん、この義務の範囲については論争が存在するものの、重要なことは結果として、「河野談話に挑戦すること」が旧連合国よる戦後処理に対する挑戦という「国際軍事裁判の受諾」に関わる問題になってしまったことである。同じ野球の比喩を使うなら、ストライクゾーンを広げてもらった見返りに、日本政府は旧連合国という異なる「審判」を迎えてしまうことになったわけである。

結果として、河野談話はその成立に至る過程の著しい不透明さにもかかわらず、「強制連行」された事例を確保し、しかも、それが旧連合国による「動かし難い裁判結果」により支えられることで、一定の持続性を確保することができた。現在の日本政府の成立過程は再検討するが、文面の見直しは行わないという、奇妙な立場の背景にも、このような河野談話の独特の成り立ちと構造がある。

しかし、そのことこそが逆に、日本国内における異なるフラストレーションを高めさせる効果をも持つこととなっていくのである。

続く

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