朝鮮半島の「英霊」達:日本の戦争のために死んだ人々への礼遇と敬意について考える

彼らが要求しているのは、その犠牲に相応しい待遇であり、金銭的補償はその一つの表れにしか過ぎない。民族こそ異なれ、日本の戦争のために死んだ彼等にも、我々はそれなりの礼遇と敬意を持ってするべきではないのだろうか。
A Japanese kamikaze pilot tries to crash his plane loaded with bombs onto the deck of a US Pacific Fleet warship. (Photo by Keystone/Getty Images)
A Japanese kamikaze pilot tries to crash his plane loaded with bombs onto the deck of a US Pacific Fleet warship. (Photo by Keystone/Getty Images)
Keystone via Getty Images

今、目の前に一つの履歴書の写しがある。履歴書の主は「陸軍中尉高山昇」。植民地支配末期に日本軍に入隊した朝鮮人軍人である。創氏改名以前の名を崔貞根という。

1921年、朝鮮咸鏡北道慶興郡慶興面、ソ連国境に近い、炭鉱で知られた朝鮮半島の北東端の地にて生まれた「彼」の実家は、小さな村の地主だった。「彼」の父親は、満州からウラジオストックに移り住み、物々交換で財を成した後、中ソ両国との三角貿易がしやすい慶興郡に移り住んだ経歴を持っている。地元では親日的な人物として知られており、「彼」の兄もまた、植民地期の朝鮮半島における警察官の地位についている。

裕福な環境の下、将来を嘱望されて育った「彼」の人生が大きく変わるのは1939年。中等学校を終えた「彼」が選んだ進学先が、朝鮮半島や内地の大学ではなく、陸軍予科士官学校であったからである。京城帝国大学予科にも同時に合格していた成績優秀な「彼」が、法曹の夢を断念して陸軍予科士官学校に進んだ理由は、父親の強い勧めがあったからだという。ちょうど朝鮮半島では前年1938年から志願兵制度も導入されており、植民地下の朝鮮人にとって「日本軍人として出世する」機会が広がろうとしていた時期のことだった。因みに今日まで残されている前年のデータによれば、32名の朝鮮人応募者のうち陸軍予科士官学校に合格できた人物は、僅か1名に過ぎなかったから、「彼」の成績がずば抜けていた事は確かであろう。

こうして内地に渡った「彼」は、2年前の1937年、航空兵科将校の養成のため、陸軍所沢飛行場内に設立された陸軍航空士官学校の分校で学ぶこととなった。1941年、2年の年限内で予科を終了した「彼」は、直ちに台湾は嘉義にあった飛行第14戦隊に配属されると共に、陸軍航空士官学校に入学を果たしている。士官学校卒業は1943年。その後暫くの間、「乙種学生」として鉾田陸軍飛行学校付属の福島県原町飛行場で、固定脚と複座席が特徴の軽爆撃機、九九襲撃機の操縦を習うこととなった。「彼」はここで一人の、女子挺身隊として動員されていた日本人女性と知り合い婚約を果たしている。

しかしながら、「彼」の恋は実ることはなかった。その後第66戦隊に配属された「彼」は、満州地域から中国本土に渡り、さらにルソン島へと転戦し、レイテ沖作戦にも参加した。自らの部隊が大打撃を蒙った中でも生き残った「彼」は、この後、沖縄戦に参加することとなる。そして1945年4月2日、前日に沖縄本島上陸を開始した米艦艇への哨戒任務のために、三機編隊の小隊長として徳之島から飛び立った「彼」は、二度と帰らぬ人となる。所属した第66戦隊は「平素ノ剛毅闊達攻撃精神充実セル言動」から「彼」を特攻戦死として認定した。このような「彼」の行動に対しては、陸軍第六空軍から『感状』も出されている。結婚を誓った日本人女性はその後独身を貫き、生涯、「彼」のことを慕い続けた、と言われている。

しかし、この話はここで終わりではない。何故なら、このような「彼」の死に至るまでの道程は、朝鮮半島に残された遺族たちに全く伝わることがなかったからである。太平洋戦争終結後、内地から切り離された朝鮮半島に残された人々には、終戦間際に戦死した人々に関わる戦死公報すら満足に届けられなかった、と言われている。そのような状況下、「彼」の父は、まだ中学生に過ぎなかった「弟」−彼の名は崔昌根という−に、敗戦後の混乱する日本国内において、「彼」の行方探しを命じることになった。しかしながら、戦場から送られてきた数少ない手紙等のみを頼りにした「弟」の探索は、困難を極めた。家族はその後も兄の消息を知ることができず、葬式を出すことは勿論、墓を作ることさえ出来なかった。

その後も兄の行方を捜し続けた「弟」がその最期に関わる詳細を知ることになったのは、太平洋戦争終結から実に40年を経た1985年。日本国内の知人から、この年発行された朝鮮人特攻隊員について記した書物、すなわち、飯尾憲士『開門岳』(集英社)に兄の話が詳しく書かれていることを聞かされた時のことである。こうして兄の死を確認した「弟」は、1990年代に入り、「太平洋戦争犠牲者遺族会」の活動に参加、以後、他の遺族たちと共に日本政府に補償を求めていくことになる。

とはいえ、「弟」の前に立ちふさがったのは、さらに厳しい現実だった。勿論、そのうちの一つは、第二次世界大戦以前の朝鮮半島に関わる「請求権」の全ての問題は、1965年に締結された日韓基本条約にて解決済みだ、とする日本政府の頑なな姿勢だった。しかしながら、冷淡な態度を取ったのは日本政府だけではなかった。何故なら、日韓基本条約の締結に至るまでの過程での日韓両国が、朝鮮人軍人・軍属の問題を考慮に入れながら交渉を行っていたことはあまりにも明らかであり、だからこそ韓国政府もまた、日本政府と同じく、植民地期に日本の軍人・軍属として従事した人々に対する賠償問題は、日韓両国間においては既に解決済み、という立場を取らなければならなかった。

とはいえ、それだけなら「弟」の悩みは、まだ、それほど深くはならなかったかも知れない。何故なら、1965年の日韓基本条約により、元日本軍人・軍属への補償等を根拠に日本政府から「経済協力金」を獲得した韓国政府が、極めて少額ながら遺族等に一定の「補償」をしたこともあったからである。例えば、韓国政府は1974年、元日本軍人・軍属や被徴用者に対して、「経済協力金」の中から一人当たり30万ウォンの「請求権補償金」支給を決定している。2005年には韓国政府が、日韓基本条約に関わる韓国側外交文書を公開し、これを受ける形で翌2006年には、「国外に強制動員され死亡又は行方不明になった」「強制動員犠牲者」の遺族に、犠牲者一人当たり2000万ウォンの「慰労金」を新たに支給することも定められている。

しかしながら、これらの韓国政府の決定は「弟」にとって、何らの助けにもならなかったばかりか、むしろさらなる苦痛と屈辱の原因となった。例えば、2006年、「慰労金」の支給を定めた「太平洋戦争前後国外強制動員犠牲者等支援に関する法律」は、「強制動員犠牲者、強制動員生還者又は未収金被害者が『日帝強制占領下反民族行為真相究明に関する特別法』第2条に定められた親日反民族行為を行った場合」には、「慰労金」を支給しないことを明言している。そして、ここに引用されている「日帝強制占領下反民族行為真相究明に関する特別法」第2条では、「日本帝国主義軍隊の少尉以上の将校として侵略戦争に積極協力した行為」が典型的な「反民族行為」の一つとして例示されている。加えて、韓国では以前から特攻戦死者を「天皇に絶対的な忠誠を誓った典型的な日本への協力者」と見る傾向があり、2008年には俳優の黒田福美さんらが建てた朝鮮人特攻隊員の記念碑が、除幕式を待たずして、周囲の反対により撤去される事態さえ起こっている。

つまり、1939年という早い時期に自ら日本陸軍士官学校に入学し、日本軍により「特攻戦死」を認定された兄は、ほぼ自動的に日本の戦争に協力した典型的な「親日派」と見なされることになったわけである。実際、「弟」が韓国政府に行った「慰労金」申請への回答として手渡された書類には、その旨が明確に書かれている。つまり、70年かけて兄の名誉回復と補償を求めて活動してきた「弟」が、その結果、唯一獲得できたのは、韓国政府からの「公式の親日派認定」に他ならなかった、ということになる。「弟」は言う。「せめて特攻戦死としての認定を日本政府に外して欲しい」、と。何故ならば、そうすれば少しでも兄の重荷が軽くなるからだ、と言うのである。

もうすぐ今年も暑い夏がやってくる。8月になればまた戦没者を巡って様々な議論が展開されることだろう。しかし、ここで考えて欲しい。かつて日本の戦争のために死に、あるいは死なざるを得なかった朝鮮半島や台湾の人々がいた。そして今、彼等の一部は日本のために尽くし、死んだが故に、自らの国で屈辱的な状況に置かれている。それは彼らが払った大きな犠牲の見返りとしては、あまりにも理不尽なものに、筆者には見える。

ソウルの片隅にある療養病院にて、重い病気にて長期療養中の「弟」への長いインタビューを終えた筆者に対して、別の軍人・軍属の遺族はこう呟いた。「東京には朝鮮人軍人・軍属のための慰霊碑一つないのですよ」。彼らが要求しているのは、その犠牲に相応しい待遇であり、金銭的補償はその一つの表れにしか過ぎない。民族こそ異なれ、日本の戦争のために死んだ彼等にも、我々はそれなりの礼遇と敬意を持ってするべきではないのだろうか。そしてそのための方法は様々なものが考えられるはずだ。戦後70年という節目に我々は人間の「名誉」についてもっと真剣に考えるべき時に来ている、のかもしれない。

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