適応障害になって気づいた。自立の意味が変われば、社会人の「鬱」は減るかもしれない

僕は今年5月末、適応障害という心の病気を患い、働けない身体になってしまった。

日本では、「自立」という言葉は「独立=独り(一人)で立つ」と同じ意味合いで使われることが多い。

例えば、親が子どもに「自立しなさい」という時、それは「親に依存することなく、社会的・経済的に、一人(独り)で生活できるようになること」を暗に意味している。少なくとも、僕はそういった印象を抱く。

あたりまえのように使われる「自立」という言葉だが、普段生活する中で、その意味を真剣に考えたことがある人は少ないのではないだろうか。

僕は今年5月末、適応障害という心の病気を患い、働けない身体になってしまった。大学在学中から起業し、アフリカで働くほどバリバリ活動していた人間だからこそ、日常生活もままならない状態に置かれ、戸惑うことも多かった。

一時期は「プライド」がボロボロになり、何のために生きているのか感じられない時もあった。

しかし、その経験は僕に、「自立」の本当の意味を考えさせる大きなきっかけにもなった。「自立の意味が少し変わるだけで、社会人の『鬱』は減るのではないだろうか。」そんな風にまで考えるようになった。

バリバリ活動していた人間が、ある日突然働けない身体になった

昨年5月、まだ早稲田大学に通う学生だった時、僕はアフリカ支援の団体を起業した。本の自己出版や講演、ブログ執筆といった活動と並行しながら、南スーダン難民支援も立ち上げるなど、一年間脇目も振らずに突っ走っていた。

南スーダン難民居住区に暮らす子どもたちです。

気温35度の炎天下、昼食を取る暇もなく難民の家庭を一軒一軒訪問し、ニーズを聞く調査活動は非常にタフさを求められます。

けど、子どもたちの笑顔を見ていると、少しだけ疲れが癒される気がします。 pic.twitter.com/bdd6VBYbOp

— 原 貫太 / 世界を無視しない大人になるために (@kantahara) 2017年8月27日

学生時代の活動は、このハフポストに100本近い記事を寄稿するという形でも発信してきた。「原さんは期待の若手活動家だね」周りからはそんな言葉をかけてもらいながら、自分でも調子に乗り、休むことなくひたすら働き続けていた。

しかし、自分でも気づかぬ間に疲労やプレッシャーが蓄積されていったのだろう。今年5月末、僕は適応障害という心の病気を患い、大好きだったはずの仕事ができない身体になってしまった。まだ大学を卒業して2カ月も経っていなかった。

大学在学中からアフリカで働いたり、本を書いたり、講演をしたりと、それなりに道を切り拓いてきた人間が、ある日突然、家族のサポートなしには日常生活すらままならなくなってしまった。バリバリ活動していた人間だったからこそ、丸一日家で休養するだけの生活には、なかなか馴染むことができなかった。

「本当に休んでいてもいいのだろうか。」そんな葛藤が僕を苦しめた。

心の病気をきっかけに「自立」の意味を真剣に考えた

だが、適応障害という病気を患った経験は、僕に「自立」の意味を考えさせる大きなきっかけにもなった。

「自立」は、あたりまえのように使われている言葉だからこそ、その意味を真剣に考える人はほとんどいないように思える。僕自身、これまでは「大学を卒業したら、親から自立して暮らさないと。」くらいの文脈でしか、この言葉の意味を考えたことはなかった。

しかし、病気の身体になり、周りからのサポートを受けながら生活する身になると、「自立」の本当の意味とは何なのか、どんな状態が「自立」を指すのか、いやでも考えさせられた。

自立と独立を同義でみなしがちな日本

僕たちが暮らす日本では、「自立」と「独立」は、同じ意味合いで使われている印象を受ける。

「独立」は、その言葉の通り「独り立ち」を意味する。さらには、「周りとの関係を切り離すこと」もその意味に含まれているように感じる。

親が「子どもを『自立』させなくては」と思う時、例えば子どもが大学生の家庭であれば、「会社に就職し、自分で生活できるようになる」など、「親元から離れて、一人で生きていく」といった意味が「自立」には込められている。少なくとも、僕はそんな印象を抱く。

いずれにせよ、これらの「自立」は、「独立」と同じ文脈で使われることが多い。

アフリカで学んだ自立の意味

「自立」という言葉の意味を辞書で引いてみると、「他への従属から離れて独り立ちすること」と記載されているが、この捉え方は少なからず、日本社会の生き辛さに繋がっていると思う。

アフリカの紛争被害者を支援する国際協力NGOでインターンシップをしていた時、元子ども兵や難民の方たちと向き合う過程で、自立の本当の意味は「周囲との豊かな関係性を維持しながらも、自分らしく生きること」と学んだ。

実際に、紛争被害を受けた人たちが経済的・社会的な自立を果たしていく時、それは同時に、彼らが周辺住民との良好な人間関係を構築し、かつ自分にとっての「生きがい」や「自己実現できる場所」を見つけることも意味していた。

多くの紛争被害者にとってそれは、村での共生や助け合い、また誇れる仕事を手にすること、生まれた子どもに愛情を注ぐことだった。

適応障害になって気づいた自立の本当の意味

今年5月末、適応障害を患い、僕は日常生活すら十分に送れなくなってしまった。自分一人の力だけでは、どうしようもない状況に置かれた。

社会的に弱い立場に置かれた人の気持ちは、当事者になって初めて痛感できる。アフリカで出会った人たちの顔が、自然と少しだけ思い出された。

しかし、そんな苦しい時期であっても、周りの家族や友人は僕を支えてくれた。もしも、「あなたは『自立』するべき身なのだから、自分一人の力で何とかしなさい。」と言われていたら、病気を克服することはできなかったかもしれない。

自立とは、「他への従属から離れて独り立ちすること」ではない。病気になり、周りから支えてもらっていることを実感できたからこそ、「困った時に頼れる依存先を持ちながら、自分らしく生きること」が、自立の本当の意味ではないか。僕はそう感じた。

人間は誰しも弱さを抱えながら生きている。毎日働き、複雑な人間関係の中で暮らしていれば、自分の力だけではどうにもならない状況に直面することはきっとある。

そんなとき、一人だけでその困難を乗り切るのではなく、出来ることは自分の力で解決するが、どうしてもダメな時は周りの人たちに助けを求める。少なくとも、周りに助けを求められるだけの豊かな人間関係を日頃から築いておく。

これが、本当の「自立」なのではないだろうか。

自立の意味が変われば、社会人の「鬱」は減ると思う

自立って、日本では「周りとの関係を切り離し独り立ちすること」と考えられているけど、本当の意味は「困った時に頼れる依存先を持ちながらも、自分らしく生きること」だと思う。日本でも「困った時は周りに頼っていい。それも自立なんだよ」って言える人が増えるだけで、社会人の鬱は大きく減るはず。

— 原 貫太 / 世界を無視しない大人になるために (@kantahara) 2018年1月8日

「困った時は周りに頼っていい。それもまた、自立なんだよ。」

そう言葉をかけられる人が増えるだけでも、社会人の「鬱」は減ると思う。自ら命を絶ってしまう人の数も、今よりは少なくなるのではないか。

僕は今年一月にも、精神的に不調になった時期がある。いや、5月に発症した適応障害の兆候が出始めていたと考える方が正しいかもしれない。

その時は自分のプライドなんか捨て、悩みや苦しみを周りに打ち明けることで気が楽になっていた。困った時は一人で解決するのではなく、周りの力に頼っていい。そう感じられた経験だった。

大人になるにつれ、「何事も自分の力で解決しなくては」と感じてしまう人が多い。でも、「困った時、どうにもならない時は、プライドや恥なんか気にすることなく、周りに頼っていい。そのための人間関係を日頃から築いてこう。それもまた、自立なんだ。」と言える人が増えるだけで、社会は少しだけ生きやすい場所になると思う。

適応障害を患った経験から、僕はそう感じることができた。

あなたにとって、「自立」とは何を意味するだろうか。この記事をきっかけに、少しでも考えてくれたら嬉しい。

(2018年11月13日 「原貫太オフィシャルブログ」より転載)

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