なぜ「世界」は80万人の死を防ぐことが出来なかったのか? ルワンダ虐殺から22年(前半)

なぜ「世界」は80万人の死を防ぐことが出来なかったのだろうか。そこには、国連を始めとした国際社会の大失敗がある。

虐殺の跡地に安置された犠牲者の遺骨(photo by 原貫太)

アフリカの大地で起こった20世紀最大の悲劇、「ルワンダ虐殺」

1994年、フツ族系の政府とそれに同調する過激派フツ族の手によって、100日間で少数派ツチ族と穏健派フツ族約80万人が殺害された。

4月にフツ系大統領が何者かに暗殺されたことをきっかけに抗争が激化。ツチ族系のルワンダ愛国戦線 (Rwandan Patriotic Front) が同国を制圧するまで虐殺は続いた。

毎年4月7日は、「1994年のルワンダにおけるジェノサイド(集団殺害)を考える国際デー」(英名:International Day of Reflection on the Genocide in Rwanda)とされており、犠牲者の追悼とジェノサイド防止が呼びかけられる。またルワンダでは、4月11日にも様々な追悼イベントが予定されている。

今年一月、私は虐殺が行われた跡地を巡るため、東アフリカに位置するルワンダを訪問した。

現地で実際に目の当たりにした話を踏まえながら、「ヨーロッパによって持ち込まれた民族対立」「一夜にして起きた45,000人の虐殺」「ルワンダ虐殺における国際社会の大失敗」の3つに焦点を当てて、この"悲劇"を振り返りたい。

(このようなトピックは非常に難しく、記事を書いている今も様々な葛藤が私を襲います。しかしながら、過去に対して目を逸らさず、事実を事実として受け止める事、そして考える事。現地に足を運んだ私の場合であれば、さらに伝える事。これらに取り組むことは、犠牲になった方々に対する最低限の責任だと考え、ここに記します。)

ヨーロッパによって持ち込まれた民族対立

東アフリカに位置する小さな内陸国ルワンダ共和国。

「千の丘の国」とも呼ばれるこの緑豊かな美しい国は、近年ではその著しい経済成長から「アフリカの奇跡」とも呼ばれている。今日のルワンダだけを知っている人であれば、たったの22年前に80万人が虐殺された地だとは感じられないだろう。

ルワンダ首都キガリの美しい街並み(photo by 原貫太)

1918年の第一次世界大戦終結まではドイツ領東アフリカに置かれていたが、ドイツの敗戦と共にルワンダはベルギーの統治下に入った。

上記したように、ルワンダ虐殺では多数派のフツ族が少数派のツチ族(並びに穏健派フツ族)を殺害したが、本来この両者の区別は曖昧で、身長や鼻の長さ、皮膚の色に多少の違いは見られるものの、その外見や文化、習慣などに差異を見出すことは難しい。

植民地化されるまで、農業を中心に各民族は平穏に暮らしていたとも言われる。

ルワンダの子ども達(photo by 原貫太)

しかしながら、植民地化を行う過程で、宗主国のベルギーが「ツチ族の方がヨーロッパ人に近く、優秀だ。」という人種的差別観を持ち込み、両者が対立する原因が生まれた。

ほぼ全ての首長をツチ族に独占させた他、税・労役・教育などの面においてツチ族を優先、1930年代にはフツ族・ツチ族の身分を区別するためにIDカードを導入。少数派であるツチ族が中間支配者層に、そして大多数のフツ族が更なる支配下に置かれたのだ。

ヨーロッパ諸国が植民地化、特にアフリカのような多民族が生活する地を植民地化する際、支配される側の中に階層を作り、しばしば中間支配者が置かれた。この結果として

●大多数を占める被支配者(フツ族)の不満は中間支配者(ツチ族)に向かうため、宗主国(ベルギー)は安心して植民地経営を行うことが出来る

●一国内における階層が、独立後(特に民族間における)内戦の火種となる

といった事に繋がった。

一夜にして起きた45,000人の虐殺

今回の記事では、一夜にして45000人が虐殺されたという技術学校の跡地、ムランビ虐殺記念館を訪れた際の記録を書く。

ムランビ虐殺記念館入口。足を踏み入れた際、鳥肌が立ったのを今でも覚えている。(photo by 原貫太)

"丘の上の学校に避難すればフランス軍の保護が受けられる"という市長と教会の司教の言葉に欺かれ、避難していたツチ族約45000人が過激派民兵に殺害された。

※近年の研究によれば、ルワンダ虐殺は非常に組織立った形で行われたことが明らかとなってきており、この組織的犯行は「ジェノサイド」(Genocide)を構成する大きな要素ともなっている(関連記事:イスラム国は「ジェノサイド(大量虐殺)」に関与、アメリカ政府が発言。注目すべき点は何か?)。

ルワンダ虐殺当時のカンパンダ首相は、ルワンダ国際戦犯法廷(International Criminal Tribunal for Rwanda,ICTR)の事前尋問において、「ジェノサイドに関しては閣議で公然と議論されていた。」と発言しており、また当時の女性閣僚一人が全てのツチをルワンダから追放することを個人的に支持しており、他の閣僚らに対して"ツチを排除すればルワンダにおける全ての問題は解決するだろう"と話していたとも証言している

カンパンダ元首相はさらに、ジェノサイドを主導した者の中には軍や政府高官も多数含まれており、また地方のジェノサイド主導者であれば、市長や町長、警察官なども含まれると供述している。

(photo by 原貫太)

一人は斧で、一人は鉈で、一人は銃で。夫が妻を殺し、妻が夫を殺した。隣人が隣人を殺し、また隣人が隣人を殺した。

21年と9か月前、まさに私が立っているこの場所で、老若男女関係なく多くの罪なき命が失われた。

虐殺の跡地には、犠牲となった人々が当時着ていた衣服が残されている。虐殺を主導したフツ族過激派は、ツチ族を「根絶」するために女性や子供を好んで狙った。生後間もない赤ちゃんも虐殺された。(別の虐殺の跡地にて撮影)(photo by 原貫太)

(photo by 原貫太)

殺害された遺体は、当初、写真にある穴(mass grave/集団墓地)に放置された。この穴からは、無数の死体と遺留品が出てきたと言われている。

※mass grave(集団墓地)には、「お互いに接した状態の二つもしくはそれ以上の遺体を含むもの」「少なくとも6体以上の遺体を含んだもの」などいくつか定義が存在する。

(photo by 原貫太)

建物の中には、殺害された人々のミイラ化・白骨化した遺体が無造作に並べられていた。

頭蓋骨の割れた遺体、赤子を抱いた母親の遺体、手足の切断された遺体、叫ぶように口を開けた子供の遺体……。

部屋の中にはこれまで嗅いだ事の無い「死臭」が漂い、遺体は触るととても冷たく、決して人の身体とは思えなかった。

(photo by 原貫太)

「世界から虐殺は無くなっていない。今この瞬間も、多くの人々が不条理な死に追いやられている。」という私の問いに、当時12歳だった方は、「世界は何も学んでいない。」と答える。

今日、虐殺の跡地では子供達が元気に笑う。ルワンダ虐殺から22年の月日が流れ、世界はどれだけ変わっただろうか。

先進国に生きる私たちは、テレビに映し出される世界の紛争や貧困を未だ「可哀想」の一言で片づけ、愛する家族や恋人とディナーを続けているのだろうか。

80万人の死から22年が経った今日、今年で6年目を迎えるシリア内戦では既に25万人以上が亡くなっており、多くの一般市民が人道危機に瀕している。

そして、その多くが本来国民を保護するべき役割を担うはずのアサド政権によるものであるにも関わらず、安全保障理事会は、拒否権という国連を成立させるための米ソ妥協の産物により、その正義を果たせていない(関連記事:クラーク前NZ首相が国連事務総長選へ出馬。-国連の改革は進むか?)。

(photo by 原貫太)

どれだけ恐ろしかっただろう。どれだけ悲しかっただろう。どれだけ悔しかっただろう。当時の状況を想像する事は出来ても、その奥底にある感情まで捉える事は究極的に難しい。

なぜ「世界」は80万人の死を防ぐことが出来なかったのだろうか。そこには、国連を始めとした国際社会の大失敗がある。

(「なぜ「世界」は80万人の死を防ぐことが出来なかったのか?――ルワンダ虐殺から22年(後半)」へ続く)

記事執筆者:原貫太

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