南スーダン難民居住区での活動最終日。井戸で水汲みをする子どもたちと話をした後、彼らが毎日のように頭に載せて運んでいる20リットルポリタンクを持たせてもらった。
僕は、その重たさにショックを受けてしまった。片手で持ちあげるのに、大変な苦労をした。現地では10歳ちょっとの子どもであれば、このポリタンクを頭に載せ、家までの距離を毎日往復しているのだ。
難民のみならず、アフリカでは水汲みの仕事があるからと、学校に通う時間的な余裕がない子も多い。特に、「家事は女性がやること」という"伝統"がいまだに残っている地域では、女の子が優先して水汲みの仕事についている。アフリカ滞在中、そんな彼らを毎日のように目にしてきたはずなのに、実際にその大変さを体験したことはなかった。最終日にそんな「あたりまえ」に気づき、少しだけ恥ずかしくなってしまった。
南スーダン難民居住区でも、ウガンダ北部の農村でも、車で走っていると頭の上にポリタンクを載せて歩く子どもたちをよく見かける。家族で列を成し、最後尾をまだ5、6歳の子が5キロのポリタンクを頭に載せて歩いていることもある。その光景は、アフリカでは「あたりまえ」であるがために、長く滞在していると見慣れてしまう。
現場での活動は、淡々と進んで行く。いや、厳しい状況やたくさんのニーズが溢れているにもかかわらず「数字」で結果を出すことが求められるプロの世界では、淡々と進めていかなければならないのだ。いちいち難民の境遇に想いを馳せる余裕はないというのが、プロの世界における一つの現実だ。
それに、どんなに足しげく難民居住区に足を運んだとしても、不条理に晒されている彼ら彼女らと同じ状況になることも、同じ気持ちを抱くことも、できやしない。それが、人間というものだ。不条理と対峙し、紛争や貧困によって傷つく人たちを支援するために「熱い心」が必要なことは事実だが、普段は「冷たい頭」を持って、淡々とプロジェクトを前へと進めていく。
だからこそ、ウガンダ滞在中、僕は意識的に「立ち止まる」時間を作っていた。夜遅く、部屋を薄暗くしてベッドに寝転がり、大好きなMr.Childrenを聴きながら、出会った難民の顔を思い出していた。
紛争で家族を失ったこと。民兵に家財をすべて奪われたこと。一緒に逃げてきた母親が自殺をしたこと。淡々と毎日が進んでいく中でも、あたりまえになるべきではない「あたりまえ」と向き合うように心がけていた。
日本に帰国した今、改めてこの「立ち止まる」勇気が僕には必要だ。東京の繁華街を歩けば、そこにはアフリカで起きている不条理とは程遠い光景が広がっている。家に帰れば、温かいご飯が僕を待っている。「おかえり」と言ってくれる家族が待っている。大学に通いながら国際NGOを起業する生活は、ただでさえ忙しい。
だからこそ、あたりまえではないはずの日本での生活が、僕にとって「あたりまえ」になってしまう前に、何度だって僕は立ち止まって、考えなくてはいけない。なぜコンフロントワールドを立ち上げ、何のために活動しているのかを。
アフリカ滞在中に何度も聴いていた音楽を日本で聴くと、不思議な気分になる。
アフリカと日本。全く違う環境にあるからこそ、そこで流れる音楽も、違ったように聞こえるのかもしれない。
でも、現地で覚えた忘れてはいけない気持ちがある。時々立ち止まって、それをひとつひとつ思い出しながら、一歩ずつ前へ進んでいくんだ。不条理の無い世界に向かって。
(原貫太オフィシャルブログより転載、一部編集)
記事執筆者:原貫太
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