麻原彰晃をはじめとして7人の死刑執行

私はなんだか、呆然としている。
TORU YAMANAKA via Getty Images

オウム真理教・麻原彰晃をはじめとして7人の死刑が執行された。

「オウム事件真相究明の会」の立ち上げ記者会見をしたのが6月4日。それからわずか1ヶ月での死刑執行だった。

執行前日には、会での打ち合わせが持たれていた。この声明をもとにして、今後なにができるかなどが話し合われた。国会は7月22日まで開かれていることから、国会会期中の死刑執行はないのではないかと思い込んでいた。しかし、死刑は執行された。

死刑執行を受けて、様々な声が渦巻いている。私はなんだか、呆然としている。地下鉄サリン事件から、23年。死刑執行を伝える報道でも、法廷で麻原が事件についてほとんど語らなかったことから「真相が解明されないままの執行は無念」という声もあれば、真相は解明されている、という意見もある。私自身は、やはり真相が解明されたとは思えない。事件に至る経緯など、オウム幹部の裁判で明らかにされたことは多々ある。また、この国のほとんどの人がそうであるように、私自身はオウム裁判を一度も傍聴していない。事件についての書籍は読んでいるものの、彼らの肉声に触れたこともない。

ただ、やっぱり今思うのは、なぜ、一介の宗教団体があのような事件を起こしたのか、なぜ、多くの若者がオウムに惹かれたのか、なぜ、「救済」を目指したはずの若者たちが大勢の人の命を奪ったのかについて、明確な答えは得られていないということだ。

死刑執行を受けて、元オウム信者の言葉を思い出した。それは「オウムが日本一スットコドッコイな宗教だってわかってたんですよ、だから入ったんですよ」という言葉。それ以外にも、私が接した元信者たちは、苦笑とともにオウムの、ある意味「マヌケな」エピソードを語ってくれた。

本などでも書いているが、私は地下鉄サリン事件後、多くの元オウム信者たちと交流している。事件があった1995年、私は20歳のフリーターで、何者でもなくて使い捨て労働力でしかない自分が嫌で嫌で、そこに中学のいじめの後遺症をずっと引きずって対人恐怖でリストカットやオーバードーズばかりしていて、とにかく生きているのが嫌だった。一言で言えば、どん底だった。

事件後、報道はオウム一色になり、私は連日浴びるようにオウム報道を見ていた。そしてオウム元信者が出演するイベントなどに出かけては、彼らと朝方まで語り合った。

周りの友人たちが恋愛と買い物の話くらいしかしない中、オウム元信者たちとは話が合った。自分と同じような社会への違和感や生きづらさを抱えている気がした。そして交流が深まれば深まるほど、元信者が語るオウムと、凶悪な事件との間の溝はどんどん深まっていった。本当にこの人たちが語る教団が、あの事件を起こしたのか? と。

もちろん、私が接していた元信者の立場もあるだろう。幹部クラスは軒並み逮捕されている中、私が接していたのは事件後に脱会した、ある意味で末端の信者たちだったのだと思う。オウム内での「カラオケ大会で優勝した」という話などから浮かぶのは、まるでサークル乗りの若者たちの日々で、脱会信者の中にはオウムを抜けたものの、「こっちの世界に戻ってきても何もない」と絶望している人もいた。みんな利己的で、お金のことばっかり考えていて、この社会には少しも魅力がない、というような。

それから20年以上経って、あの頃交流していた元オウム信者たちとの付き合いは気がつけばなくなっていた。私は25歳で物書きとなり、そうして43歳となった今、気づけばあれほど死にたかったのに、死に向かう気持ちは大分薄れている。オウムへの関心は持ち続けてはきたものの、それは事件直後のようなものではなく、司法のあり方や真相解明についてだ。

「オウム事件真相究明の会」を立ち上げてから、過去の私がオウムにある種のシンパシーを抱いていたことなどについて問題視する声も届いている。当時、そのような感情を抱いていたことは率直に認めるが、今はもちろんない。また、一部ブログなどに、私が作家となる以前の20年前の発言が引用され、それを問題視する意見も寄せられている。地下鉄サリン事件を受け、オウムに入りたかった、など事件の興奮を語ったものだ。これについては本当に撤回したいとしか言いようがないが、背景を少し説明させて頂くと、その発言をした当時の私はフリーターで、自殺未遂者の一人として受けた取材での発言だ。98年、23歳の頃である。そのインタビューが掲載された本が出版されたのが02年。私は00年にデビューしていたが、出版にあたって文章を直したりはしなかった。私にそのインタビューをし、原稿を書いた女性が亡くなっていたからだ。

もちろん、そんなことは言い訳にはならないことはよくわかっている。ただ、自殺願望の塊だった当時の私は、漠然と世の中を恨んでいた。地下鉄サリン事件が起きた時、強烈に世の中を恨む人が本当に本気で事を起こしてしまったのだ、と戦慄した。もしかしたら私がそっち側にいたかもしれない。加害側にいたかもしれない。絶対的な存在に指令を受けたら、自分だってやってしまったかもしれない。戦慄の中、そう思った。そういう意味では、オウム問題は最初から、私にとっては「他人事」とは思えないものだった。

それから23年後の今、私の中のシンパシーは消えている。人はそれなりに認めてくれる居場所があり、役割があれば過剰に世の中を恨んだりはしないし自暴自棄にもならない。20年以上かけて、少しずつそれを積み上げてきたことが今の自分を作っている。その過程で、「シンパシー」は消えていった。

一方で、私はあの時の自分の気持ちを忘れたくはない。そしてあの時期、私と同じようにオウム報道を目を皿のようにして見ていた若者たちの心の中で何が起きていたのかも、決して忘れたくない。上祐ギャルなどという言葉があったように、友人の中には「追っかけ」する者もいたし、オウム事件後にできた友人たちとは会えばずーっとオウムのことばかり話していた。なぜ、あの頃、私たちはあれほどオウムにこだわったのか。オウムに何を見ていたのか。「死のうと思ったことなんてないし、社会を恨んだことなんて一度もない」人とは違う視点から見えてくるものも、きっとあると思っている。

このように、20年以上かけて、甘え腐った私はなんとか社会に軟着陸したのだと思う。

しかし、あの頃の私と同じように、生きづらさを抱える若者たちは多くいる。「死にたい」とSNSで発信したことによって9人の若者の命が奪われた座間の事件。そして「死刑になりたい」「誰でもよかった」と口にする無差別殺人事件の犯人。当時は「若者の閉塞感」なんて言葉がよく聞かれたものの、その言葉を聞くことがあまりなくなるほどに「閉塞」は当たり前のものとなった。そして現代の若者たちは、バブル世代の若者がオウムに惹かれたのとは別の、過酷な生存競争に日々晒されてもいる。オウムが信者を増やしていた頃の日本はまだ「一億総中流社会」と言われ、「頑張れば報われる」社会でもあった。しかし、今は格差が広がり、「どれほど頑張っても一定数の人は決して報われない」社会となってしまった。そして生きづらいのは、若者だけではない。

「もうイスラム国に行くしかないかもしれない」

後藤健二さん、湯川遥菜さんらがISに拘束されるまで、周りのアラフォー世代から何度かそんな言葉を聞いた。当時はISが恐ろしいほどの勢いで勢力を増していた頃。生活が保証され、給料も出るという話から、冗談交じりにせよ、そう語る友人知人たちの話を聞いていると、彼ら彼女らの背景に「生きる目的への飢え」がちらつくこともあった。先の見えない不安定な生活。それを支える低賃金の単純労働。時給制の使い捨て労働力としてではなく、「マトモな命の使い道」が喉から手が出るほど欲しい、というような。

同時期、ISには世界中から若者が合流していた。そして2014年、日本から大学生がISに参加するためシリアへの渡航を計画したとして「私戦予備および陰謀罪」の疑いで関係先が捜索されるということも起きた。

オウム裁判は、今年の1月、すべて終了している。しかし、「オウム的なもの」が入り込む人々の「心の隙間」は、事件当時よりもずっと広がっている気がするのだ。先の見えない不透明な時代だからこそ、「こうすれば幸せになれる」という回答がほしい。そんな思いにつけ込むものが宗教だけとは限らない。

思えば少し前のこの国では「こうすればそこそこ幸せになれる」というルートはあった。が、今のこの国には「こうすれば幸せになれるどころか、食いっぱぐれないかどうかもわからない」という過酷な現実があるだけだ。

死刑執行の報を受け、そんなことを考えている。

(2018年7月11日 雨宮処凛がゆく!より転載)

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