「#MeToo」と、「呪いの言葉」と押し付けられる女性像。

この社会は「産め」という圧力だけはかけ続けるものの、「産んだ後」については驚くほど冷淡だ。

「4人産んだら国が表彰したらどうか、そんなことを言った議員がおりました。妊娠して批判された女性議員もおりました。産まなくても怒られ、産んでも怒られる。いったいどうすりゃいいのでしょう...」

3月10日、東京・国立市で開催された「ウィメンズマーチくにたち」のパレードで、割烹着姿の女性はマイクを握ってそう言った。彼女が持つチリトリには「#Me Too」の文字。その隣の女性は真っ赤なドレスの上にやはり割烹着を着用。さらに、赤ちゃんの人形の乗ったベビーカーを押し、背中には人形の赤子を背負い、手にはゴミ袋やネギの突き出た買い物袋やハタキなんかをぶら下げている。「家事と育児を一身に押し付けられた女性」のコスプレをした女性たちは、パレードの途中、音楽に乗せて割烹着を華麗に脱ぎ捨て、家事道具も放り出して踊り出したのだった。

その2日前の3月8日、国際女性デー当日。東京・渋谷では「ウィメンズマーチ」が開催された。冷たい雨の降りしきる平日夜だというのにデモには約750人が参加。「黙らねぇ」「私の趣味は家事じゃない」「保育園入りたい」「#Me Too」などのプラカードを掲げた女性たちが、「賃金安くてマジでヤバい!」「長時間労働マジでヤバい!」「セクハラ、パラハラ、マジでヤバい!」「保育園落ちてマジでつらい!」「女が生きるのマジでつらい!」「我慢するのはもう限界!」とコールを響かせた。

そうして3月25日、玉川聖学院で開催された中高生向けの人権セミナーでは、「#Me Too」がメインの話題となった。登壇したのはNPO法人ヒューマンライツ・ナウの伊藤和子さん、上智大学教授の三浦まりさん、そして私。女子中高生も交えて、「女子力」という言葉や「女だから◯◯すべき」という押し付けなどへの違和感を存分に語り合った。

ハリウッドのセクハラ問題を発端に、昨年来、世界に広がる「#Me Too」ムーブメント。やっぱり、みんなおかしいと思ってたんだ。この手のもやもやって、ちゃんと問題にして、口に出していいことなんだ。それが、ムーブメントの始まりに感じた第一印象だった。だって、ずーっと「そんなことでいちいち騒ぐな」と嘲笑され、口を封じられてきた。その上、この国にはセクハラやジェンダーに関する違和感を口にした瞬間に「ブス、ババアと罵られる」という刑罰が存在する。

「セクハラくらい笑ってかわせよ」「いちいち目くじら立てるなんて可愛くない」。もう今まで言われすぎているので、自分が言う前にどんな言葉が返ってくるかわかってしまう。だからこそ、口をつぐむ。だけど、そうやって「黙らせること」そのものが卑劣なことだったのだ。そんな「当たり前」が共有されるまで、随分と長い時間がかかった。そして残念なことに、共有はまだまだ一部である。

それにしても、この国には「呪いの言葉」が溢れている。私が今まで言われてきた言葉をざっと思い出すだけでも、「男を立てるのが女の仕事」「女は楽でいいよな」「家事も育児も女の仕事」「若くて可愛いが女の価値」「男以上に成功するな」「男以上に稼ぐな」「早く結婚しろ」「早く産め」「男の浮気は笑って許せ」「知っていても知らないふりをしろ」などなど、今思えば正気とは思えない昭和感漂う言葉を投げつけられてきた。

それだけではない。この国では、そんな「呪いの言葉」を政治家たちも多く吐いてきた。

2001年、石原慎太郎氏は「文明がもたらした最も悪しき有害なものはババア」「女性が移植能力を失っても生きているのは無駄で罪」などと発言、物議を醸した。

07年には自民党の厚生労働大臣(当時)・柳澤伯夫氏が、女性を「産む機械」と発言して非難を浴びた。

14年には、都議会で妊娠や出産、不妊に悩む女性への支援を訴えた塩村文夏都議が「早く結婚しろ!」「産めないのか!」という野次を男性議員から浴びた。野次を飛ばした鈴木章浩都議は謝罪の場で「少子化、晩婚化の中で、塩村議員に早く結婚して頂きたいという軽い思いで」そんな暴言を吐いたと釈明。野次をただ丁寧な言葉にしただけのその言い訳に、「何もわかってない」と世間の失笑を買った。

そうして17年11月、自民党の山東昭子・元参院副議長が党の役員会で「子どもを4人以上産んだ女性を厚生労働省で表彰することを検討してはどうか」と発言し、大きな批判を浴びた。

これを書いている私は40代のひとり身で、子どもはいない。そんな私にとって、手を替え品を替え、様々な形で立ち現れてきた「産め」という圧力は、随分と乱暴で無神経なものに思える。

プライベートな領域に土足で踏み込まれるような不快さももちろんあるが、子どもを産んで育てられるような環境はこの国にあまりにも乏しく、結局は涙ぐましいほどの「女の忍耐と我慢」によってギリギリ成り立っているように思えるからだ。

仕事と家事と育児の両立に悩むのは、女。

保育園に落ちたら泣く泣く仕事を辞めるのも、女。

運良く保育園に入れても、仕事と家事と育児で過労死寸前のような日々に忙殺されるのも、女。

この国では、男は経済的自立さえしていればそうそう責められることはない。しかし、女はその上で家事や育児まで完璧にこなすことを求められ、「男を立てる」ことまで要求される。仕事を続けたら続けたで「旦那さんの理解があっていいわね」なんて言われ、育児に手がかかったり介護を必要とする家族がいれば仕事を続けていることを責められ、やむを得ず仕事をやめて育児や介護に専念すれば、誰もねぎらってくれないどころか「気楽な専業主婦」扱いされる。

一方で、結婚しない女、子どもがいない女は、時に無神経な言葉に晒される。

最近も、新聞の投書欄を読んでいて卒倒しそうになった。そこには、「結婚も出産もしていない人間は社会を支える義務を果たしていないから年金を減額すべき」という内容のことが書かれていたのだ。

怒りを通り越して、悲しくなった。75年生まれの私は団塊ジュニアで、私たちが出産適齢期を迎える90年代、00年代には第三次ベビーブームが来るのでは、なんて言われていた。だけど、この世代はバブル崩壊の余波を思い切り受け、非正規第一世代となり、正規での就職も結婚も出産もしないまま40代を迎えた人が多くいる。結婚したかった、出産したかった、という声は決して少なくない。だけど、経済的な要因からそれが難しかった人が多いのに、まるで子育てしなかったことへの「罰」のように年金を減額だなんて、あまりの暴論ではないのだろうか。

この社会は「産め」という圧力だけはかけ続けるものの、「産んだ後」については驚くほど冷淡だ。社会全体で子どもを育てようという気は皆無。子育て支援も乏しく、あれほど騒がれた保育園問題もいまだ解決にはほど遠く、今年度は4人に1人が認可保育施設に落ちるという有様だ。その上、シングルマザーになったらまるで「離婚したことへの罰」を受けるかのように厳しい生活が待っている。あっという間に2人に1人が貧困に陥る、という現実がそれを証明している。

これまで取材してきた事例を振り返っても、貧困の果てのシングルマザーの事件は多い。

14年、千葉県銚子で、家賃滞納により公営住宅を追い出されるというその日に中学生の娘を絞殺してしまったシングルマザー。札幌では、生活保護を打ち切られた果てに3人の子どもを残してシングルマザーが餓死した事件が87年に起きている。また、10年に起きた大阪二児餓死事件では、風俗で働きながらホスト通いをしていたシングルマザーが大バッシングを浴びた。しかし、杉山春氏の『ルポ虐待 大阪二児置き去り死事件』を読めば明らかなように、彼女は「よい母親」であることに非常に強いこだわりをもち、離婚前までは実際に「よい母親」として生きてきた。が、「よい母親」でいられなくなった瞬間、彼女はあっという間に壊れていったのだ。

責められるべきは、本当に彼女だけなのか? 就労経験のほとんどない女性が、誰の助けも経済的支援も一切受けず、自らと子ども二人の生活費を稼ぎながら1歳と3歳の子育てをたった一人ですることが可能だと、どうして周りは思えたのだろうか。どうしても、そこが解せない。

が、世の中には、母親に到底不可能なことを要求するような「母親はこうあるべき」という規範が溢れている。そしてそれは、多くの女性たちを追い詰めている。その規範は時に、犯罪被害者の家族にも向けられる。15年、川崎の河川敷で中学一年生男子がむごたらしい形で殺された事件の際、バッシングは加害者だけでなく、「親は何をやってたんだ」と被害者の母親にも向けられた。その母親もまた、仕事と子育てに追われるシングルマザーだった。

このようなバッシングに触れる時、この社会の残酷さに言葉を失う。この国は、シングルマザーへ「生きられる条件」をちっとも与えないのに、なぜか「溢れる母性」だけは強く要求するのだ。そうして、母性さえあれば、母の愛さえあればなんとかなるはずだという精神論を押し付ける。これも「呪い」のひとつだろう。

さて、ここまで書いてきたような「呪い」について、一冊にまとめた。4月5日に出版される。タイトルは『「女子」という呪い』(集英社クリエイティブ)。

なんだかもやもやすることは、性別を入れ替えてみると非対称性が浮き彫りになる。

例えば、ここまで書いてきたことで言うと、保育園に落ちて仕事を辞める妻はいても、それで仕事を辞めた夫の存在を私は知らない。多くの女性は小さな頃から「頑張れ」「努力しろ」と言われ、「でも、男以上には成功するな」というメッセージを受け取ってきたけれど、「頑張れ、でも女以上には成功するな」というダブルスタンダードに晒されてきた男性などいない。また、メディアには時々「夫の不倫を謝罪する妻」が登場するが、「妻の不倫を謝罪する夫」を私は見たことがない。

そんなふうに、性別を入れ替えることによって「これ、おかしいよね?」と提示するやり方に、「必殺! フェミ返し」と名付けた。同書では、「女なんだから◯◯できて当然」などと時代錯誤なことをのたまうオッサンを「黙らせる方法」も盛り込んだ。まえがきの一部は、私のブログで公開している。

ジェンダーをテーマとした本は、私にとって初めてである。もう黙らない。「#Me Too」ムーブメントに大きな勇気をもらい、そう決めたからこそ、出版となった。

女性にも男性にも、ぜひ、読んでほしい。

「女子」という呪い』(集英社クリエイティブ)

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