立川生活保護廃止自殺事件、その後。の巻

フィンランド発の精神療法「オープンダイアローグ」は、対話の手法として、すべての人が知るべきノウハウが満載だ。
生活保護を受けてやっと取り戻した「住まいのある生活」から一転…(写真はイメージ)
生活保護を受けてやっと取り戻した「住まいのある生活」から一転…(写真はイメージ)
NurPhoto via Getty Images

2015年12月、東京都立川市で、一人の男性が自ら命を絶った。

その死から1年4カ月後、弁護士などによって「立川市生活保護廃止自殺事件調査団」が結成された。私もそのメンバーの一人である。

ことの発端は、15年の大晦日、立川市の共産党市議団控え室に以下のようなFAXが届いたこと。

" 新聞社・議員へ

立川市職員に生活保護者が殺された! 真相を追及して公開、処分してほしい

知り合いの○○(個人名なので伏せます)が高松町3丁目のアパートで12月10日に自殺した 担当者の非情なやり方に命を絶ったよ

貧乏人は死ぬしかないのか 生活保護はなんなのか 担当者、上司、課長は何やっているのだ 殺人罪だ 平成27年12月 ○○の知人 "

亡くなったのは、立川市で生活保護を受けていた48歳のAさん。15年12月10日に自殺した。自殺前日、Aさんには、生活保護の廃止通知書が送られていた。このことから、生活保護廃止という通知を受け、絶望して命を絶ったことが推測される。

この事件については、連載の第413回で詳しく書いたのでそちらもぜひ読んでほしいが、生活保護を受けるまでのAさんの暮らしぶりは、まさに90年代から始まった「雇用破壊の犠牲者」と呼びたくなるものだ。高卒後は正社員として働くものの、その後期間工となり、自衛隊を経たあと、派遣の仕事を転々とする。が、リーマンショックの前年、30代にして路上に追いやられてしまう。その後、紆余曲折ありつつも立川市で生活保護を利用して暮らすようになるのだが、アパート生活を始めて約1年後、生活保護廃止通知書が送られ、その翌日、彼は自ら命を絶ってしまう。

生活保護の廃止理由は「就労指導違反」。要は「働けと指導したのに働かなかった」ということだ。が、大きな疑問として浮かぶのは、「そもそも彼は働ける状態だったのか?」ということだ。

生前の彼と接した支援団体の人などによると、Aさんは「死にたい」と口にすることもあり、うつ状態が疑われたという。また、高校卒業後、短期で職を転々とするという経歴や、路上にまで追いやられてしまったという事実からは、軽度の知的障害や発達障害などがあった可能性も浮かび上がる。しかし、そのようなことが顧みられることはなく、福祉的な支援に繋ぐという対応もなく、生活保護の廃止は決定されてしまった。

過酷な路上生活も経験し、生活保護を受けてやっと取り戻した「住まいのある生活」。そんな中、保護を廃止すると言われたら。家賃も払えず、生活費、食費もない。また路上に戻るのか、それとも死ぬしかないのかという究極の選択を迫られる。

この廃止処分について、市の担当課長は「路上生活の経験があるので、保護を廃止してもなんらかの形で生きていけるんじゃないか」と話したという。これは、人間に対して使われる言葉では決してない。この言葉を知った時、Aさんの絶望の片鱗に触れた気がした。そして廃止処分を受け、Aさんは路上に戻ることを選ばず、死を選択しているのだ。

Aさん亡き今、彼に障害があったのかどうか、あったとすればどのようなものなのか、確かめるすべはない。しかし、どこかの段階で誰かが彼の抱える「生きづらさ」に気づいていたら、場合によってはうまく支援に繋がれたかもしれない。少なくとも、「とにかくすぐに仕事を見つけろ。見つけないんだったら保護を打ち切るぞ」という展開にはならなかったのではないか。

このようなことが二度と起きないよう、彼の死から一年以上経って、「立川市生活保護廃止自殺事件調査団」が結成され、私も入ったというわけだ。

立川市との話し合いを重ねる中で、調査団が要請したのは、再発防止のために職員研修を充実させること。軽度の知的障害など、一見「支援の必要がない」ように見える人々に対する支援のあり方などについて、職員に知識・スキルをつけてもらうことだ。現場で一人ひとりと顔をあわせる職員だからこそ、気づけることがある。救える人がたくさんいる。そんな職員が増えていけば、Aさんのような悲しい事件はもう起きないはずだ。

そうして今年の1月30日、とうとうその研修の日がやってきた。立川市の生活福祉課が、「軽度障害者の支援のあり方について」という課内研修を開催したのだ。講師は、調査団が推薦した精神科医・森川すいめい氏。世界の医療団の理事であり、年末の炊き出しでは、寒風吹きすさぶ中、吹きっさらしのテントでいつもニコニコしながらホームレス状態の人たちの相談に乗っている人だ。一言で言うと、私がもっとも尊敬する精神科医であり、「現場の人」である。

そんな森川氏は、立川市の職員たちを前に、誰も置き去りにならないよう、ゆっくりゆっくり、優しい声で話した。時々立ち止まって、「ここまで、大丈夫ですか?」と室内を見渡す。参加した職員は生活福祉課の30人ほど。日々ケースワーカーなどとして働く人たちだ。それ以外に立川市議会議員の面々や調査団メンバーなど。

森川氏による研修は2時間にわたって続いたのだが、軽度知的障害について、本当に発見の連続だった。

例えば、森川氏はある人のケースを紹介した。

話がうまくて、一見とても障害があるようには見えない。しかし、働けない。働いても続かない。森川氏がその人の話をじっくり聞いてわかったのは、その人には限定的な学習障害があったということ。脳の障害によって、かけ算や割り算ができない。よって、飲食店などで働いても計算ができずミスをしてしまう。だから仕事が続かない。本人は「自分が勉強しなかったからだ」と思い込んでいる。しかし、そうではなくて、障害があったのだ。

また、「施設に入ると失踪してしまう人」のケースについても紹介された。中卒で建設現場などで働きつつ、20年ほど路上生活をしてきて生活保護を利用したある男性。個室シェルターから施設に移ると、失踪してしまう。これまで、実に4回の失踪を繰り返してきたという。そんな人の話をよくよく聞いてみると、「漢字が読めない」ことが発覚した。ひらがなは読めるものの、多くの漢字を読むことができない。

路上生活をしている間は、「漢字が読めない」ことは彼の障害ではなかった。なぜなら、手配師に仕事をもらい、単純作業をする生活の中では漢字は必要なかったからだ。しかし、施設に入るとそれは障害になる。まず、施設のルールが書いてある貼り紙の字が読めない。読めないからルールを破る。怒られる。怒られると、失踪する。それを繰り返して生きてきたのだ。中等度の知的障害がある彼は、「誰かに相談する」「困っていることを伝える」ということができなかったという。また、誰かに説明を受ける際も、理解していなくても「うんうん」と頷いてしまっていたのだという。そうやって、従順に振る舞うことで生き延びてきたのだろう。

「納豆が食べられない」という理由で施設から逃げてしまう人の話も紹介された。施設の食事で出る納豆が、食べられない。しかし彼は、「食べられないと言っていい」ことを知らなかった。そんなことを言ったら殴られてしまうのでは、という恐怖。納豆が食べられない彼は、納豆が出るたびに失踪してしまうのだ。そうして路上生活に戻る。

路上生活の理由が「納豆が食べられない」。まさかそんな理由でホームレス状態になっている人がいることに、一体誰が気づけるだろう。その彼はおそらく、「原因」など想像もつかない人たちから「一体なんなんだよ!」などと責められ続けてきたはずだ。そうしてどんどん「支援」というものから遠ざかっていく。「責められる場所」「怒られるところ」からはとにかく逃げる。そうやって、なんとか自分の身を守ってきた人たちがいる。路上にいる人の中には、今もそんな人たちが多くいる。10年以上、貧困の現場を見ていても、それはわかる。

「ホームレス状態でも生活保護を利用できる」「若くても利用できる」などの知識が知られてきたことによって、知的な障害のない人は比較的早めに福祉の網にひっかかることができているという印象がある。一方で、今も路上にいたり、路上と施設を行き来したりしている人の中には「支援の難しい人が多い」というのが現在の印象であり、多くの支援者から聞く言葉だ。この日の研修の前に挨拶した立川市の職員も、生活保護を利用する人の中には、専門的な課題を抱える人が増えているということを話していた。

さて、それではそのような支援の難しい人たち、見えにくい障害を抱える人たちに対して、どうすればいいのか。

森川氏が強調したのは、いかに「本人の話を聞く」ことが重要か、ということだ。プロの支援者であればあるほど、経験から思い込みによって支援を進めようとすることがある。しかし、本人の困難の理由は、プロの支援者の斜め上を行っていることが多々あるのだ。

「思い込みによる支援をやめる」。それよりも、まずは本人の話を聞くこと。丁寧に丁寧に、聞くこと。そうすれば、いかに専門家の主観が間違っているかよくわかる。

話はそこから、「オープンダイアローグ」(フィンランド発の精神療法。本人を交えた開かれた対話)に繋がっていった。オープンダイアローグ。この数年、注目されている方法で、私も関心があり本などを読んでいるものの、改めて森川氏から聞くとまたまた多くの発見があった。オープンダイアローグは対話の手法として、ホームレス支援とか障害がある人への支援とかまったく関係なく、すべての人が知るべきノウハウが満載だ。

研修の中盤、4人一組になって、「相手の話を聞く」「自分の話をする」ことを実践。自己紹介、ここに来たいきさつ、期待などをそれぞれ語る。私は職員の方々と同じグループになった。日々、生活保護の現場で働く人たちの生の声に触れられたことは大きな収穫だった。同時に、私自身がなぜこのような問題で活動、取材しているかなども話した。行政の人々と対立するのではなく、生活保護行政を充実させたい、という点ではおそらくみんな同じ思いを持っている。そんな話をもっともっとしたかったけれど、時間切れ。そうしてあっという間の2時間の研修は終わった。

「やっと、実現しましたねぇ...」

研修のあと、調査団のメンバーとしみじみ言葉を交わした。

Aさんが自ら命を絶ってから、3年以上。調査団を結成し、記者意見をし、立川市と話し合いの場を持つなど様々なことをしてきた中で、やっと「職員研修」までたどり着いた。本当に少しだけど、一区切り、ついた気がした。

何をしたって、失われた命は戻ってこない。だけど、まるで亡くなったAさんに導かれるようにして、ここまで物事は動いてきた。調査団結成の前、Aさんについてみんなで調べていた時には、本当に偶然、Aさんの痕跡を発見したこともあった。生前、Aさんはある支援団体を訪れており、相談記録が残っていたのだ。それによって、Aさんがどんな人生を歩んで路上生活となり、生活保護に至ったかが次々と明らかになった。その記録を発見した時には、その場にいた全員、鳥肌が立つような思いだった。「自分の無念を晴らしてくれ」。Aさんに、そう言われている気がした。そうしてこのたび、この研修にまで辿り着いた。みんな会ったこともないAさんが、弁護士や市議会議員、支援者などいろんな人を動かして、立川市での研修が実現したのだ。

小さな小さな一歩だとは思う。だけど、私たちがずーっとやってきたのは、このような小さな一歩を積み重ねることだ。そのことによって、ほんの少しずつだけど、社会は変わっていくし変わってきたことを知っている。

一方で、思う。Aさんが生きているうちに、森川さんのような精神科医に会えていたら...と。が、森川さんが言うように「丁寧に」話を聞くには時間と人手が必要だ。それは生活保護のみならず、今、多くの支援の現場でもっとも不足しているものではないだろうか。

立川市は、話し合いの中で、今後、就労指導違反を理由とする生活保護の廃止・停止をする際には相談機関などを記載した文書を交付することを約束した。これもひとつの大きな前進だろう。

もう二度と、Aさんのような死者が出ませんように。そのために、できることをやっていく。

(2019年2月6日 雨宮処凛がゆく!より転載)

注目記事