報道における「匿名性」の問題

報道現場における取材する側、取材される側の「責任」。

薬物疑惑が報じられていた俳優の成宮寛貴さんが9日、

芸能界引退を電撃発表した。

「心から信頼していた友人に裏切られ

複数の人達が仕掛けた罠(わな)に落ちてしまいました」

としたうえで、

「自分にはもう耐えられそうにありません」

成宮さんはそう自ら文書に綴っていた。

ことの発端は、今月2日の「FRIDAY」の記事。

成宮さんのコカイン使用現場とする写真を掲載し、

その写真を提供したのは成宮さんの友人男性だと伝えた。

記事内容の根幹すべてをこの「友人男性」の話や提出素材に頼ったものだ。

"薬物疑惑"の事実関係について、

実名で報じられているのは、成宮さんだけであり、

成宮さんへ直撃取材のときの彼のコメントのみが、

匿名ではない人物の肉声だった。

事実がどうなのか、当然ながら不明。

それもそのはずで、

「友人男性」の証言などにもとづいた、

「FRIDAY」のいうところの"疑惑"でしかないのだから。

けれども現実をみると、

その"疑惑"と題した記事により、一人の役者の人生が一転してしまったのだ。

「事実無根」と成宮さんは訴えていた。

その彼の言葉を信じるのか、

「FRIDAY」のいうところの"疑惑"を信じるのか...

(photo:kazuhiko iimura)

今回の成宮さんの件とは直接関係ないけれど、

ここ数年、ずっと気になっているのが、

報道における「匿名性」の問題。

少し前に書いたものだけれど、加筆して改めてアップしました。

象徴的な例は、数年前長野県で発生した、

小学5年生の少年が諏訪湖で遺体となって発見された事件。

この事件では、

行方不明になった少年の足取りが、

若い女性の「ウソ」の目撃証言によって大きく歪められた。

「ずぶ濡れの少年を自宅に招きいれ、

カップヌードルを食べさせた」

「自宅まで送って行こうとしたら、

白いワゴン車にのった若いカップルが、

"僕たちが送るから"といったので、そうしてもらった」

この目撃証言は極めて重要な意味をもった。

少年の足取りのヒントであり、

なにより彼の「生存」の証明であったから。

ところがその目撃証言がウソ、

若い女性による狂言であることが後に分かる。

動機は面白半分。

報道各社のインタビューに彼女は「顔なし・匿名」で答えていた。

ウソの目撃情報にもとづいた捜索が行われれば行われるほど、

事実から遠のいてしまったという現実は重い。

もちろん、

各報道機関にも問題がある。

ここ数年、

事件が発生するたびに目にするのは「匿名報道」の洪水。

「顔も名前も出しませんから取材に応じてもらえませんか?」

溢れかえる匿名報道を見るにつけ、

現場で取材に当っている記者や番組担当者たちのそんな姿が目に浮かぶ。

「匿名報道」は、

プライバシー保護など取材対象者のやむにやまれぬ理由により、

どうしても実名報道ができない場合に限って許されるもの。

しかしそれとて、

事実関係をきちんと掴んだ上で、

当事者(取材対象者)への実名報道の必要性を説いた後に、

「それでも実名では困る...」

となった場合にだけ許される手法のはずだった。

そのプロセスをきっちり踏むことによって、

取材対象者も証言の重要性を認識し、

さらには、証言につきものの「責任」についても考えられる。

同時に、このプロセスを通して取材者側は、

取材対象者が本当のことを証言しているのかどうかを

少なからず見極めることができるのだ。

「顔も名前も出しませんから...」

この言葉を取材する側が、

安易に発しているように思えてならない。

報道現場における取材する側、取材される側の「責任」。

その所在がいま、

大いに揺らいでいる気がしてならない。

(2016年12月11日「TVディレクター 飯村和彦 kazuhiko iimura BLOG」より転載)

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