誰が福島第一原発を収束させるのか―見えない人間(1)

今、純真無垢に公園で駆け回っているこどもたちの誰かを収束作業に向かわせる現実を私たち大人は作ってしまった。その現実を考えた上で、現在の作業員と子ども達の代まで作業員を放射能からどう守っていくのか。それを国民全体で考える必要がある。

黒人作家のラルフ・エリンソンに『見えない人間』という小説があるが、この題名を借りれば天皇への評言

はぴたりと定まる。天皇こそ、この日本でもっとも見えにくい人間のひとりであるからだ。天皇は「見えな

い人間」である。「御真影」と、霞たなびく二重橋の向こうに現れる、白馬にうちまたがった馬上姿の「活

動写真」しか目に触れることのなかった戦前に比べれば、グラビヤ、テレビ、映画あるいは肉眼で天皇を見

る頻度は飛躍的に増大した。しかし、だからといって果たしてよりよく「見える」ようになったかどうかは

疑問である。「金婚式を迎えられ、九人のお孫さんに囲まれる幸せな老御夫婦」という週刊誌のリード以上

に、僕たちが知ることはそう多くはない。つまり人間天皇の「人間」の部分を理解出来る手持ちのカード

が、あまりにも少なすぎるのだ。そのために、天皇はますます不可視になっていく。(沢木耕太郎著 「人の砂漠」 新潮文庫)

ノンフィクション作家、沢木耕太郎の天皇をめぐるルポルタージュの序文である。先日、沢木氏の本を何気なく読み返していたら、この文章に再会した。「見えない人間」。本文の内容とは全く異なるが、この言葉は原発作業員のことをうまく言い得ている。恐れ多いが、もっとも見えにくい人間に原発作業員の男たちも付け加えさせて頂きたい。福島第一原発事故以降、原発作業員を「知る」機会、あるいは「見る」機会は以前と比べたら間違いなく増大したが、それに比して、作業員の「人間」を私たちが理解するようになったかと言えば、おそらくそれは違う。ほぼ毎日、報道される収束現場の情報、汚染水漏れ、電源喪失、燃料棒取り出し、そして、偽装請け負い、ピンハネ、線量隠しなどの作業員に関する報道。これらは作業員の労働環境を説明さえすれど、彼らの人間については語らない。逆説的だが、日常生活とは縁の無い言葉の数々と、SF世界を思わせる白いタイベック(防護服)と全面マスクの映像は、彼らの人間性を私たちから遠いところへと追いやっていく。

では、作業員の「人間」を私たちが知らないことによる弊害とは何か。「見えない人間」が働く収束現場では何が起きるのか。この問いなくして、作業員の人間性をいくら語っても、片手落ちの情報発信になろう。この問いに答える為には、収束作業員の役割について認識する必要があるだろうし、彼らが置かれている状況について考える必要がある。そして、それらを考える為に、まずは、遠い所に追いやられた人間性を一度身近なところまで引き寄せる必要がある。それら一つ一つの作業をこのブログで毎回、記していこうと思う。

シンプルにいきつく問いの答えとしては、作業員を守る為の第3者の監視の目(国民の目)が行き届かない事による弊害だ。作業環境・賃金のさらなる悪化、健康に対する保障、作業員確保の問題、それらは現実問題として既にきわどい所にきていると思うが、それによって、いずれ収束作業自体が成り立たなくなる可能性がある。もし仮に、東京電力発表の廃炉までの工程表が現実的だったとしても、そこで働く人間がいなければ、収束作業の工程表など、絵に描いた餅である。収束作業とは30年、40年経てば、ああ、いつの間にか終わったんだねえ、という類いの仕事ではないはずだ。

大手マスコミの報道はどうであろうか。テレビでは汚染水漏れに関して各社横並びの大々的な特集は組まれても、作業員に配られていた昼食が廃止されたことでは大々的な特集は組まれない。4号機の燃料棒取り出しは取り上げられても、同じ時間に、4号機脇で働いていた作業員が、燃料棒取り出しの事実を知らないという、情報供給の問題は取り上げられない。それらは一企業の組織の問題として片付けられる問題ではない。国家安定の根幹を成す、大事な収束作業現場の話なのだ。弁当の問題など、小さな問題だと思われるかもしれないが、作業員への待遇や作業環境、健康対策によるモチベーションが作業工程に大きく関わってくることに疑いの余地はない。

私は事故以降、福島第一原発作業員の撮影を続けているのだが、私の場合は運良く、直接彼らに出会うきっかけを持ったため、「人間の職場」として福島第一原発を見る事が出来た。もともと旧警戒区域の市町村に住み、現在は避難場所から現場に向かう作業員。原発事故によって仕事を失ったために、生きる為の仕事として収束現場を選んだ作業員。県外から、手を上げて収束現場の仕事を選んだ作業員。それぞれ状況はことなるが、それぞれ想いを持って作業にのぞんでいる。

現在、作業員に関するプロジェクトをいくつか平行して進めているが、その一つとして、作業員とその家族のポートレート写真というものがある。「見えない人間」との距離感を埋める為に、作業員本人だけでなく、彼らを支える人々への取材を開始した。このブログでは、それらのインタビュー内容も掲載していこうと思う。

第一回目は、福島第一原発へ息子を送り出す、父親の言葉を聞いて頂きたい。下記は今年1月にインタビューした内容を一部書き起こしたものである。

「まあ、複雑な心境だよね。本人(息子)がやる気になっているからいいと思うけど、健康に対する不安が無いって言ったら、それは嘘。誰にも分かんないわけだから。でも、我々の年代(60代)が一生懸命、収束の現場に行っても、これからの若い人間が長年やっていくわけだから、あの年代(20代)が本気になって収束に向かってやんなかったら、これから無理だと思うんだよね。 作業員不足だって言われてるけど、若い者が率先して行くっていうのは、俺は良いと思う。

事故当時、みんな避難したんだけど、うちは商売やってたから、避難出来なかったのね。福島県外にある得意先との対応とか一ヵ月ぐらい俺と息子の二人でやってたの。他の住民は避難していないし、どうすっかなと思ってたけど、一ヵ月経って、先が読めないっていう時に、広野火力発電所(福島第一原発から約20キロ地点に位置し、関東地域へ電力を供給するための発電所)の瓦礫撤去が始まったんだけど、あの時も作業員がいなかったんだよね。その時、たまたま知り合いの土建業があったんで、とりあえず、火力だから行って手伝えっていうことで、息子を行かせたんだよね。二人しかいないから、俺が弁当作って持たしたんだよ。それで、本人もいきいきとしてるし、こっちの方の商売が向いてるのかなと思ったりもして。

それで、最初は火力発電所で安心はしてたんだけどね、 いつのまにか、福島第一原発の方に行ってるって言われた時に、えっ?て。放射能のことなんて分からないし、不安だったよね。でも、本人がやる気になってやってるんだったら、それも必要かなって。誰かがやんなきゃならないんだから。

線量がある程度の限界に達したら、働けなくなるでしょ。そのへんの基準があれば、問題無いんじゃないの。それしか、ないんじゃないのと思っていたけどね。

今も将来どうなるのか複雑だけど、やっぱりこれは、地域にいる人だけが作業するんじゃなくて、思うのは日本全国から徴兵制じゃないけどね、海外では軍隊に1年とか、2年とか入るところもあるじゃない。そういうかたちで、日本も一部の人間だけが作業にあたるんじゃなくて、日本全国から、徴兵制みたいな感じで、交換交換で作業員を循環させられたら息子一人の負担が減るわけだからね。その方が良いと思うけどね。でも、息子から話をきくと、 本人は自分の人生かけているわけだから。だから、うちの家業はつがなくて良いと。それで、いいんじゃないと思うけどね。」

高線量の現場では若い人間には働いて欲しくないという考え方があるし、被曝の影響を考えれば、間違いなくそれは正しいのであろう。それを考えれば、この父親の言葉を無責任な発言と思う人もいるかもしれない。しかし、私たちは収束作業の年月を忘れてはいけない。私たちの残した負の遺産は、間違いなく、子どもの世代、孫の世代、そして、その先々まで続くのである。今、純真無垢に公園で駆け回っているこどもたちの誰かを収束作業に向かわせる現実を私たち大人は作ってしまった。その現実を考えた上で、現在の作業員と子ども達の代まで作業員を放射能からどう守っていくのか。それを国民全体で考える必要がある。

その為には、不可視で遠い存在の見えない男たちを、私たちの身近な所まで引き寄せなければいけない。

誰が福島第一原発を収束させるのか。それは現場で収束作業に直接のぞむ人々と、それを支える私たち。そして、これからの未来を生きる子どもたちである。(見えない人間(2)に続く)

誰が福島第一原発を収束させるのか―見えない人間(1)

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