女性差別とセクハラ問題―財務官僚のセクハラと麻生大臣の発言から考えたこと

男性中心社会の女性活躍推進の限界を露呈したのだといえるのではないだろうか。
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日本の大手マスコミは「女性差別」という言葉を使うのを嫌う。根拠が不明というのである。筆者が男女の不平等に関する記事を書いたときも、「女性差別」ではなく「男女格差」という言葉に置き換えてほしいという提案を何回か受けた。実は筆者が議論していたのは女性に対する「統計的差別」と「間接差別」で、これらは意味の明確な学術用語だから、使わせてほしいという形で最終的に編集者の了解をとってきた経験がある。

「統計的差別」というのは、個人には不確定なことなのに、同じ属性の人々の平均を当てはめて、平均が判断者の観点から見て「劣っている」と、その属性の人々全体を劣っているとみなすことでその属性を持つ人々に不利益を与えることである。例えば女性の育児離職率が、男性よりはるかに高い時、女性はみな育児期に辞めてしまうとみなして人材投資はむだと考え男性と同様の企業内人材育成をしないのが統計的差別である。この傾向は多くの日本企業にみられる。

「間接差別」というのは、属性を直接的な基準とはしないが、属性により平均的には大きなハンディキャップを負う基準を採用や昇進に用いることで、特定のグループに不利益を与えることである。例えば、家庭内での家事育児は女性が主に担わせられるという慣行があるとき、恒常的に残業ができるという基準を管理職昇進の要件の一つとすると、男性に比べ家庭の役割との両立が難しい女性はその昇進要件を満たすのが難しく不利益を被る。この間接差別の傾向も多くの企業にみられる。

欧米で差別防止の法的かつ倫理的基礎となっているのは性別、人種、民族、LGBT などの性的指向・自認、年齢などによる社会的機会の平等の実現である。社会的機会とは、教育、雇用、消費などにおける機会についていう。その機会の不平等の究極の形が属性基準による排除である。最近では身体的障害、育児・介護の有無、宗教的信条など「個人的・家庭的」理由と考えられていた事柄についても、職場や働き方の改革を通じてより平等に社会的機会を提供しようという「多様性と包摂(ダイバーシティ・アンド・インクルージョン)」の考えが主流となった。筆者もその考えに共鳴したので、過去10数年にわたり、日本においてワークライフバランスやダイバーシティの考えの重要性について、主として実証研究結果をもとに訴えてきた。また最近ちびっこ相撲からの女子の排除の動きに対し批判的記事を書いたのも、「土俵の女人禁制」の伝統が続いてきたことを理由に女子排除を例外的に認めることを、社会的機会の平等を優先的に考える自由な社会にとって望ましくないと考えたからである。

さて、前置きが長くなったが最近財務省事務次官のセクハラ事件に関連しては、事件そのもの以上にこの事件に対する国の対応のお粗末さのせいで、多くの国民、特にセクハラ被害の経験のある女性たちにとって怒りを招く結果となった。筆者も暗澹たる思いがある。報道によれば、麻生財務大臣は今回の財務次官のセクハラ事件の類を防止するには、番記者から女性を外せば良いといったという。これに対して、ネットの論議で、これは「女性を貶めるセクハラという形の女性差別を女性排除という別の形の差別に置き換える」論理という的確な指摘があったが、それに対して一方でそのことが理解できない人も、麻生氏本人を含め、未だ多いように見受けられた。「番記者から女性を外す」のが社会的機会を奪う究極の基準である排除の論理であることは自明であろう。麻生氏の論理を一歩推し進めれば、職場におけるセクハラの防止には、女性の雇用を止めよということになりかねない。

上記のネット発言の重要性は、属性による社会的機会の不平等、特に排除、が社会的差別の一つの典型的な形であるのに対し、「特定の属性を持つグループを貶める」のがもう一つの差別の形であることを明確に述べた点だ。黒人を雇用しないことが、社会的機会を通じた差別なら、黒人を人種的に「劣等」とみることで、彼らを貶める言動や、心理的あるいは物理的虐待を行うことがこのもう一つの差別の形である。特定グループへのヘイトスピーチも、悪質なセクハラもこの「属性により貶める差別」とみることができる。

日米を行き来して思うのはセクハラ自体はどちらの社会にも起こるが、起こった際の為政者や、セクハラ被害にあった女性労働者の雇い主の対応が、日米で大きく異なるという点である。今回のケースでも、女性記者の訴えを朝日テレビが当初無視したと報告されている。筆者の知る事例で、女性の営業部員が顧客企業の男性のセクハラを経験したが、上司が我慢せよというのに失望し、そのため精神的苦痛が持続して離職したというケースもある。

日本における経済取引には、仕事を得る側がクライアントに個人的サービスを提供し、その見返りに取引を成り立たせるというような不公正な慣行がある。かつて高度成長期に蔓延した「接待営業」がその典型である。経済取引の公正な自由競争にも反し、「クライアント側」が公務員の場合収賄・贈賄の罪となる悪しき慣行である。このような慣行の下で、仕事を取る側が女性記者だったり、女性営業部員だったりするときに、彼らの雇い主がクライアントのセクハラに対し、被害者の女性側に立って防止する努力をせず、仕事を取るための「必要悪」と黙認することが起こりやすい。それが外部との取引関係の仕事に従事する女性のセクハラリスクを増している。日本では取引相手や顧客との上下関係が、人間として対等でなく身分関係のようになり、それが一層下位の立場にたたされる女性に対しセクハラが起こりやすい職場環境を生んでいるのである。

均等法の適用では、セクハラが起こる「職場」を広く、労働者が働く場所のすべてを含むとし、例えば記者の場合取材の場所も「職場」とされるが、事業所内でのセクハラと異なり、顧客や取引相手によるセクハラは、雇い主の直接的な防止が出来ないので、政府による事業所への行政指導を通じたセクハラ防止策では限界がある。また今回はセクハラ被害者が大手マスコミの雇用者であったから、最終的には雇い主が被害者を守る側に立ったが、もしセクハラ被害女性がフリージャーナリストであったり、自営業主であったり、というように組織の後ろ盾を持たない場合、女性はセクハラ問題にとりわけ脆弱な「職場環境」に置かれることになる。今後均等法によるセクハラ防止で特に留意して欲しい点である。

また政府要人の対応についても、麻生財務大臣、下村元文部科学大臣の発言などに代表されるように、被害者女性の側に立った視点が、全くないといってよいほど欠落していており、いわゆる「二次加害」にもなっていると考えられ、それに対し野田総務・女性活躍担当大臣を例外として、強い批判が政府内部からも起こらない。米国でもトランプ大統領は女性蔑視の発言をしてきたが、彼は例外であり、その発言は国民だけでなく、共和党内からも強く厳しく批判された。だが日本では今回のセクハラ問題での政府関係者の事実上の女性蔑視発言は例外では全くなく、またそのような発言への厳しい批判も自民党内では全く起こっていない。

筆者は、セクハラに対するこれらの政権関係者や、雇い主企業の、およそ人権感覚が麻痺しているともる対応は、女性が活躍できない社会だからこそ、女性の活躍できない政治や職場のあり方を再生産しているからだと思える。それは米国で筆者が何らかの意思決定の会議に出ると、出席者の約半数は常に女性であるのに対し、日本では見渡す限り男性ばかり、という状況の違いが問題の根底にあるという意味である。男性のみで、自分たちの限られた経験知で意思決定をすれば、セクハラ問題やワークライフバランス問題のように、男女で経験の大きく異なる事柄に対しては、女性の視点の無視・軽視が起こりやすく、それがまた女性が活躍できる社会の基盤づくりを阻んでいると思われるからだ。上記の接待営業なども、男性だけの同質的社会の企業取引慣行の中で生まれたものだ。そこで女性が「搾取」されやすいのは、接待業サービスでの女性利用、女性営業部員へのセクハラ、と形は変わっても底を流れる女性蔑視・軽視の考えは同じであるからである。

結局、このような日本社会を変え、人々が性別にかかわらず生き生きと働ける社会を生み出すには、今後一人でも多く、政治や経済活動での意思決定の場に女性を送り出していくことが根本対策であると思う。女性の活躍の推進が、日本の今後の発展の要であると筆者は信じているし、そう信じるに足る実証的根拠も示してきた。日本社会もその様に進む方向にあるとも思えた。だが今回のように、女性の活躍推進を含む働き方改革を唱える政府自身が、それを反故にするようなセクハラ問題への対応をとったことは為政者の認識不足というより、これこそまさに男性中心社会の女性活躍推進の限界を露呈したのだといえるのではないだろうか。

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