多和田葉子の哲学と「人間といのち」

自殺者の多くは、社会的に孤立しがち、あるいは「除外」されがち、な人々を「包摂」できる社会の実現で救済できることが実証的に明らかにされている。

シカゴ大学にいると時折幸運に恵まれる。今年の3月7日の事だ。年に一度の日本研究グループのイベントである日系米国人名誉教授の名を冠した『ナジタ講演』に、人権問題などに関する研究で有名な人文学のシカゴ大学フランク研究所とドイツ文学科の後援で、今年は多和田葉子氏が招かれたからだ。

多和田さんの講演とその独特のパフォーマンスを「国際舞台」で直接見聞きできる機会など、めったにあるものではない。「舞台」はInternational Houseと呼ばれる留学生優先のシカゴ大学の大学院生の寮で、ロックフェラー財団が国際交流のために作ったこの施設では、その名にふさわしく多くの国際文化的イベントが毎年開催される。

多和田さんは和文と独文の小説で芥川賞やドイツのゲーテ・メダルをはじめ数々の文学賞を取ったバイリンガル作家で、その独創的な作風は、影響を受けたと思われるカフカを思わせるが、あくまで独自に異文化体験の不条理の世界や近未来を諷した仮想世界などを、その豊かなウィットと鋭い社会批判の目で描く。講演の題は「いのちと人間ではどちらが大切か?」という、多和田作品をいくつか読んだ筆者にも、内容の想像が難しいもので大変興味をそそられた。

多和田さんはいきなりヨルダンで出会った日本人男性の言葉として、「最近の日本では命が大切だと教えているが、命は大切ではないんです。命ならネズミでも雑草でも持っている。大切なのは人間なんです。だから彼らは人間として死んでいったのです」という言葉を紹介する。

「彼ら」とは特攻隊員のことであると多和田さんは理解して当惑するが、その発言を踏み台にし、多和田さんは日本文化の中で「いのち」という言葉も「人間」という言葉も、どちらも一種の「危うさ」を伴っていることを、文学や身近な経験を引用しながら講演で具体的に明らかにしていく。

「いのち」については、「生命」だけでなく、「人生」や「生活」をも意味する英語のライフと異なり、日本語の「いのち」はただ生きている、息をしている、という内容以外中身のない言葉であり、その結果一方で仏教のように動物や、植物や、お米まで、ありとあらゆる「生きとし生けるもの」の「いのち」は粗末にしていけないという思想から、前述の日本人男性の言葉のように「いのち」など「ネズミでも雑草でも持っているもの」で「人間」にとって重要ではないという思想まで、大きく揺れ動く安定性の無い概念であることを指摘する。

多和田さんは講演中、講演原稿を人型に切って壇上から落とす

というパフォーマンスをした。写真はその一つ。Brian White撮影

では「人間」はどうか?

これは何を以て「人間らしさ」や「人間性」とするかの内容が、特に「いのち」との関係において、日本文化の中で定まらない問題があり、多和田さんは一方で「生きること」は「人を愛すること」と謡った万葉集の歌から、太宰治(『人間失格』)や、ハンセン氏病作家の北条民雄(『いのちの初夜』)、小林多喜二(『蟹工船』)など、「いのち」との関係において多様な「人間性」の認識がありながら、他方で上述の特攻隊賛美から、深沢七郎の『楢山節考』に至るまで、国と家族という大きな違いはありながらいずれも「共同体の存続」のために命を捨てること、その意味で人命の価値を共同体の価値の下に置くこと、を以て「人間的」であると考える思想が日本文化の一部に現在まで強く存続してきたこと、また後者の考えが、西洋のように「生命」でもあるライフが、「人生」でもあり、「生活」でもあり、更には思想としては「人権を守ること」でもあり、というように、「人間的である(ヒューマンである)」ことが、人命を尊び個人を生かす社会の実現と強く結びついてきたことと真っ向から対立すること、を文学という素材を用いて明らかにしたのである。

多和田さんの話からの延長となるが、筆者には特攻隊の例についてフランスの社会学者のデュルケイムの「利己的自殺」と「利他的自殺」の区別が思い浮かぶ。「利己的自殺」は、命名は日本語だと批判的に感じられるが、生き続けることに価値を見出せない、あるいは生き続けるほうが死ぬより辛い、心理状態に置かれた人がする、日本人なら「利己的」などとは呼ばない自殺である。

このような自殺者の多くは、社会的に孤立しがち、あるいは「除外」されがち、な人々を「包摂」できる社会の実現で救済できることが実証的に明らかにされている。

一方「利他的自殺」とは何か?

こちらの命名は日本語だと肯定的に聞こえるが、自分の生きがいを共同体の繁栄と同一視するため、共同体の利益のためや、その期待に添えないことを恥じて行う自殺であり、そこでは個人の「いのち」は軽んじられやすい。西洋ではそのような自殺は稀であるが、特攻隊や、『楢山節考』の「おりん」や、マラソンの円谷幸吉選手や、不名誉に耐えられず切腹した江戸時代の武士に至るまで様々な異なる状況での日本の例にはこと欠かない。

筆者は人は何を以て生きがいとするかは個人の自由と考えるので、そういった「利他的自殺」に至る思い自体は批判はしない。また円谷選手の遺書(降旗康男監督の名画『駅 STATION』に「登場」する)など涙無くして読めない。

しかし、これは多和田さんも強調していたが、国や、共同体や、宗教が、自己犠牲を個人に押し付け、その人たちを利用することで人命が軽んじられる社会になることだけは日本に絶対に再現してはならないと思う。

何が「いのち」の内容なのかは、今後私たちが入れるべき物であるが、日本も戦後は西洋的なライフ、つまり個々人の人命や人生や生活や人権を大切にするという考えと、「命を大切にすること」は、さほど異ならないという認識が広まってきたと思う。しかし、未だそれが十分日本人共有の価値観とはいえない状況もあり、また初めに多和田さんが紹介した日本人男性のようにそれと逆行する思想も残念ながら今後影響力を吹き返す可能性もある。

「自己犠牲は美しい」というような意識を、人に押し付け、社会的強制となることは絶対にあってはならない。

それは人命と自由を尊ぶ社会の原則に矛盾する。また未だ日本における過度に社会化された「人間」のイメージは、自由を束縛し、他者が社会性の欠如を理由に「おまえは人間ではない」などと断罪するので、人の目を気にしないでは生き辛い社会になっていると多和田さんは指摘するが、筆者も同感である。

そのような「人間」に過度の社会性が期待される社会ではなく、個人の生きかたの自由や多様性(ダイバーシティー)がより広く受け入れられ、その結果人々の多様な能力も十分に発揮でき、その結果個人個人がより良く生きることができる社会の実現を、「いのちと人間」のつながりの基本とする日本社会にならねばならない、と筆者は心から思う。

講演会参加者であるシカゴ大学の教員、学生の拍手が鳴り止まぬ中、日本文化・日本文学という「外国人」には分かりにくいものを、普遍的な「いのちと人間」というテーマの中で世界に発信した多和田葉子氏の講演は、日本を外と内から見る目の重要性を改めて筆者に認識させた。なお講演(日本語)の録画は、近日中にシカゴ大学の以下のサイトで公開予定である(https://ceas.uchicago.edu/keywords/najita)。

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