僕は学校が大嫌いだった。日本人は「みんな明るく元気よく」の呪縛に囚われている

ひとりは決して不幸ではない。内向的は個性であり、ひとりは社会を強くする。

僕は学校が嫌いだった

僕は学校が嫌いだった。小学校も中学校も高校も、みんな大嫌いだった。

僕が通っていた小学校の教育目標には、「みんな明るく元気よく」といった言葉が並んでいた。僕にはこれがどうしても許せなかった。

小学校の同級生に、とても内気な女の子がいた。名前は「ゆりちゃん」。丸い眼鏡をかけ、ショートカットが似合う子だった。

休み時間にはいつも自分の席で本を読み、おしゃべりが苦手で、給食もひとりで静かに黙々と食べているような子だった。

ゆりちゃんは学校でいつも「ひとり」だった。周囲とうまくコミュニケーションが取れず、"明るく元気な"クラスの中心的な子からは煙たがられているようだった。国語の時間に先生から教科書を読むように言われると、顔を赤くしながら、か細い声で朗読していた。時には先生が「もっと大きな声で!」と、イライラすることもあった。

世間一般でみたら、ゆりちゃんは決して明るくない「おとなしい子」だったと思う。人によっては「暗い子」「陰気な子」と思うかもしれない。

でも、そんなことはなかった。ゆりちゃんは、人より内気で、感情表現が苦手なだけ。「みんな」といるよりも「ひとり」でいることが好きな子だった。

人見知りのゆりちゃんも、仲良くなると意外におしゃべりだということがわかった。

大好きな本の話、大好きなお菓子の話、大好きな「たまごっち」の話...。1対1で話すと、たくさんの「大好き」が溢れた。決して「暗い子」でも「陰気な子」でもなかった。そんなゆりちゃんのことが、僕は好きだったのだと思う。

「みんな明るく元気よく」という言葉は、ゆりちゃんのような存在を否定するものではないか。そう思うと、僕は小学校という存在がどうしても好きになれなかった。やがて、ゆりちゃんは転校していった。

恐怖のスクールカースト、苦痛だらけの学校行事

遠足はずっと苦手だった。ピースサインをしているが、顔は笑っていない。

年月は流れ、僕は中学、高校へと進んだ。同学年には集団行動が苦手な子や、内気な子がいた。かたや明るくて、カッコよくて、スポーツが得意で、女の子にモテモテで、目立つグループもいた。いわゆる「スクールカースト」があった。

スクールカーストの上位層が作り出すクラスの空気は、僕にはどうも合わなかった。当初は、明るく楽しい目立ちたがりキャラを演じてみたが、空回りするばかり。むしろ浮いてしまった。クラスになじめず、嫌な思いをしたこともたくさんあった。特に、集団行動を強いられる学校行事が何よりも苦痛だった。

例えば修学旅行。班行動だったため、行きたい場所は班のメンバーで決めた。無論、自分が行きたい場所に行けるとは限らない。大して興味のない場所でも「あぁ、僕も行きたいと思っていたんだ」と当たり障りのないことを言って、その場を乗り切った。当時の写真なんて一枚も残っていない。

全員参加の「運動会」や「球技大会」は、当日の朝に吐き気が出るくらい嫌だった。ああいうのは体育会系の部活をしている人だけが楽しめる行事だ。試合前に「みんなで一緒に頑張ろうぜ!」と無理やり円陣を組んだりするくせに、いざ僕のような運動音痴が入って、ミスをして負けると、「お前のせいだ」という目を向けてくる。だったらはじめから有志参加にすればいいじゃないか。

クラスで作った揃いのTシャツも大嫌いだった。なにが「団結力の証」だ。ひとりひとりの個性を殺す「死亡証明書」みたいなものじゃないか。袖に刺繍されたニックネームで呼ばれたことなんて、一度もなかった。

中学校の入学式。口が「への字」に。嫌がっている様子が見て取れる。

「ひとり」より「みんな」が重んじられ、「みんな明るく」が求められる。それが学校という場所だった。「ひとり」でいることが好きで、集団行動が苦手な僕にとって、「学校」はまさに「心の監獄」だった。なるべく波風立てず、学校生活を乗り切りたい...中学でも高校でも、卒業式の日を指折り数えた。

出来は良くなかったけど、僕は決して学校の勉強が嫌いだったわけではない。僕が嫌いだったのは、「みんな」という言葉を免罪符に、「ひとり」の犠牲を強いる学校のシステムだ。

運動会、学芸会、文化祭、修学旅行、合唱コンクール、球技大会...学校生活には「みんな」で頑張って、協力することが求められる場面が数多くある。もちろん、そこで活躍する子もいるだろう。仲間意識を持って頑張ったことが、良い思い出になるかもしれない。それはそれで否定しない。

でも、楽しんでいる「みんな」の陰には、声を上げられずもがいている「ひとり」がいるかもしれないことを、どうか忘れないでほしい。

「内向的」という個性、「ひとり」という選択肢

一人っ子だったこともあり、小さな頃から「ひとり」が好きだった。

21世紀の今、「毎日、学校に通わないといけない」「みんなで一緒に授業を受ける」という前提が、もはや時代遅れになっているのかもしれない。

ここ数年で社会では働きかたが多様化しつつあり、自宅で仕事をする「リモートワーク」制度を取り入れる企業も出てきた。「雇われない働きかた」も脚光を浴び、国内でフリーランスとして働いている人は1122万人に及ぶという統計もある

働きかたの多様化が進むのであれば、学びかたも多様化して良いはずだ。

東京都には、既存の学区域を超えて通う公立小中学校が選べる「学校選択制」を導入する自治体がある。中には小・中学校を自由に選べる「自由選択制」を導入しているところもある。義務教育の学校でさえ、「決められた学校」ではなく「行きたい学校」に通える時代になりつつある。

ひとりひとりのニーズに合わせた学校生活のスタイルがあっても良いだろう。近い将来、小学校も中学校も、通学して勉強するか、自宅で勉強するか好きに選べる時代が来るかもしれない。部活の場合は午後から学校に行けばいいし、修学旅行も、運動会も、参加したい人が参加すれば良い。実際に高校では、ネットを通して授業をうけられる通信制高校がある。

小・中学校にそこまで求めるのは難しいかもしれない。それでもせめて、「みんな明るく元気に」といった、人間の多様性を否定しかねない教育目標は一刻も早く闇に葬って欲しい。

ネット通販大手「Amazon」の創業者ジェフ・ベゾス氏は、会議の冒頭に参加者が静かに資料を読む時間を設けているという。アメリカのビジネス界では、「内向的な人の働きかた」「一人で黙々とする作業」を再評価する「Quiet Revolution」という動きも広がっている。

いまこそ「#だからひとりが好き」と伝えたい

大人たちが働く会社でさえ、活発な人がいれば、内気な人がいる。子供たちが通う学校だって、それでいいじゃないか。

同じクラスに明るく元気な子がいてもいいし、内気でおとなしい子がいてもいい。

休み時間に校庭でサッカーをする子がいてもいいし、寡黙に本を読む子がいてもいい。

詩人の金子みすずはこう言った。「みんなちがって、みんないい」と。

この世界は、さまざまな個性を持つ人が、それぞれの生き方をすることで成り立っている。

ひとりひとりが自分に合ったかたちで学び、働き、遊び、生きる。

大切なのは、互いを認め合い、強制しない事だ。

ひとりひとりが充実した暮らしをすれば、社会はきっと豊かになる。

自分が好きな事を「好きだ」と言えることは、とても素敵なことだ。

ひとりで過ごす時間はかけがえのない自由時間だ。

ひとりは決して不幸ではない。

内向的は個性であり、ひとりは社会を強くする。

この写真も、ひとりでセルフタイマー撮影しました

つい先日、中学時代の同級生からFacebookのメッセージを通じて友達申請が来た。

そこにはこう書いてあった。「同窓会をやるので、よかったら連絡をください」。

でも、僕はこのメッセージを放置したままにするだろう。それでいいのだ。同級生に会いたくないのではない、過去の自分に会いたくないのだ。あのころ好きだった「ゆりちゃん」のように、ひとりを楽しむ今の自分を、僕は肯定したい。

だから僕は声を大にして言いたい。「だからひとりが好き」と。

ハフポスト日本版では、自立した個人の生きかたを特集する企画『#だからひとりが好き』を始めました。

学校や職場などでみんなと一緒でなければいけないという同調圧力に悩んだり、過度にみんなとつながろうとして疲弊したり...。繋がることが奨励され、ひとりで過ごす人は「ぼっち」「非リア」などという言葉とともに、否定的なイメージで語られる風潮もあります。

企画ではみんなと過ごすことと同様に、ひとりで過ごす大切さ(と楽しさ)を伝えていきます。

読者との双方向コミュニケーションを通して「ひとりを肯定する社会」について、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。

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