ネット右翼とかいう野蛮人どもを黙らせれば全て解決・・・なのか?

日・中・韓同士の歴史認識問題による関係悪化が種々の問題を引き起こして久しいですが、ウクライナ情勢などの紛糾によって世界全体が不安定になってくることで、「いつまでもモメ続けてるわけにはいかない」という状況にもなりつつあるようです。アメリカが仲介にはいることで、色んな歴史認識問題の”トピック”たちにも「手打ち」が行われる情勢に、今後なっていくことが予想されます。

日・中・韓同士の歴史認識問題による関係悪化が種々の問題を引き起こして久しいですが、ウクライナ情勢などの紛糾によって世界全体が不安定になってくることで、「いつまでもモメ続けてるわけにはいかない」という状況にもなりつつあるようです。

アメリカが仲介にはいることで、色んな歴史認識問題の”トピック”たちにも「手打ち」が行われる情勢に、今後なっていくことが予想されます。

誕生直後の第二次安倍政権に強い期待を抱いていた日本の「草の根的な保守主義」さんのうち過激な熱情を抱えている方にとっては、今後色んな形の「妥協」を強いられる可能性が出てきている。(その結果、長く続いたネット系の右翼さんたちと安倍政権との心理的距離も少し離れつつある部分があるような印象を受けます)

もちろん、もともと「一切の妥協をしなくてすむ」と思っていたわけではないにしろ、その「妥協」を最小限に留めたいと、もし読者のあなたが「草の根保守」の性根を持っておられる方なら、切実な感覚として毎日感じておられることと思います。

逆に、「アンチ・過激なナショナリズム」を信条とされている方なら、だんだん国際的な圧力が高まってくる中で安倍政権が「正常化」していって、ネット右翼とかいう野蛮人どもを再度黙らせることができる見通しが立ってきた状況下において、「よし、もうひと押しだ!」という期待を持っておられることと思います。

で、どちらの方にも私が伝えたいと思っていることは、これから「国際的外圧」的なものが高まっていくことで、色んな歴史問題に対する「手打ち」が「公式」に行われていけば、これで東アジアの問題は一件落着!心からの平和に満ちた世界になる・・・・のか?というとそうはならないってことです。

なぜそうならないのか?

それは、例えば日・中・韓の問題というのは、それなりに日本側からの謝罪や賠償を戦後に繰り返して来た歴史があるにもかかわらず、それをブチ壊しにする「問題発言」を、日本側の「野蛮な右翼政治家」さんたちが繰り返してしまうことで、元の木阿弥どころか「余計に悪化する」ということを繰り返してきているからです。

しかしね、言論弾圧できる時代でもないんですから、そこに「感情的なシコリ」が残るような決着を「これが公式です」と無理やり押し付けておいて、「問題発言」する政治家が出てこないで済む・・・・という考え方自体が、ちょっと楽観的過ぎますよね

だから、今後1年とか2年とかいうスパンにおける「国際的な外圧」によって「公的な決着」が行われていったとしても、それが「各国の右翼さんの感情的な問題」に対して無配慮なものであったなら、絶対にまた紛糾する問題発言が各国から噴出して、そして余計にコジレることになるんですよ。

もちろん、じゃあ「国際的な外圧による公的な手打ち」をやるなってことでもないんですよ。そして、「一応こう決まったんだしそれから外れたことを言うのは良くないよね」という価値観自体が全然説得力を失ってしまったら、それはそれでどこにも基準点がない困った状況になるでしょう。

大事なのは、「公的な決着」は「それはそれ」としてやりつつ、「日・中・韓の感情問題」を「それ自体」として完全に別個に取り扱って、「公的な決着」を、「紙ペラ一枚の欧米クサイ儀式にすぎない」というレベルにまで「揉み込んでしまう」ことです。

要するに、この問題について「感情的に不満を持っている」人たちは、そもそもその「公的な決着のスキーム」の根底的な価値観である欧米風に人工的なシステムこそが、世界の混乱と不幸の元凶だ・・・ぐらいに思っているわけですから、彼らに対して「彼らが一番キライな言葉」で説得していったら当然反発も受けるわけです。

でも彼らには、「ナショナリストとして譲れない仁義の一線」みたいなものがありますから、それ「同士」を直接的に共感関係に持っていくような「物語の提示」をすることが必要なんですよね。

そういう「相手にとって譲れない世界観」に配慮しながら対話をしていく姿勢こそが、21世紀に必要な「寛容の精神」だとか「ダイバシティ(多様性)の尊重」とか言う言葉の本当の意味であるはずです。

もちろん、そういう感情問題だけを無理に刺激すると、膨れ上がったエネルギーが暴発してヒドい不幸になりがちなんですが、そこで一応の「公式見解としての手打ち」としての「紙ペラ一枚の欧米クサイ儀式」を表裏一体に運用することで、やっと本当の意味での「感情レベルまで巻き込んだ東アジアの平和」は実現するでしょう。

日・中・韓の歴史問題において、「日本の加害者責任」的な問題について、「まったく一切悪いことをしていない」というレベルの話を信じている日本人は、ネット右翼さんの中でもそれほど大人数ではないように思います。一部の一番過激な人たちを除けば、「全く悪いことしてないなんてことはありえない」ことぐらいはわかってるんですよ。

しかし、「日・中・韓の感情問題」の方が紛糾した状態でいくら「冷静な事実確認」とか言ったって、そのプロセスがそれぞれの国の愛国者たちの威信を賭けた全力のプロパガンダ合戦みたいになっている状況では、日本の草の根保守主義者さんたちだって

「”たった3割”押し返させて欲しかっただけなのに、10割全拒否する反発をせざるを得なくなる」

状況にあるわけですからね。そんな状態で「公式な手打ち」をやったって、そこに文句を言う人がいなくなるなんてことはありえないですよね。

現在の世界を一言でいうと「アメリカ一極支配から多極化に向かう時代」です。

それはつまりアメリカ文明が世界中で銃口を突きつけてギリギリ維持していた「国際秩序」が、今までナチュラルに踏みにじってきたものたちが抑えきれなくなって吹き出してくる時代です。

そうはいっても「非合法」なことをみんながやりはじめたらどうしようもないことになりますから、やっぱ「公的」には今の仕切りの延長でやっていくしかありません。また世界戦争するよりはマシですからね。

でも、それが「唯一絶対の正義」として横暴に振る舞うのか、「今の人類はやっぱコレの延長でやっていくしかないよね。でもコレが色んな人の不幸の上に成り立ってるってこと、僕らは忘れちゃいけないよね!」という態度で扱うのか・・・・によって、「アメリカ文明の外側」に生きている人たちの感情問題は大きく違ってくるわけです。

私は大学卒業後アメリカのコンサルティング会社に入ったのですが、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「東アジア人の美点を支える集団的本能」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきました。

そのプロセスの中では、その「野蛮さ」の中にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラ↓をどうぞ。)

そういう「文明社会の外側の野蛮性」と「文明社会の窮屈さ」との間をあたらしい信頼関係で繋ぎ直すことが、「アメリカ的秩序が踏みにじってきたもの」が、ウクライナやアフガニスタンで紛糾している現在の喫緊の課題なのです。

一神教同士の世界観で全力で押し合ってる中東や東欧では、なかなかそのへんの「清濁併せ呑む解決」には動いていけません。

そこで我々、「客観的な真理?なにそれ?食べれるの?」が本能の東アジア人同士の、「お互いのメンツが立つ物語の提示による解決」が、「世界史的な混乱」への「あたらしいソリューション」を提示できる時代となるのです。

「ネット右翼とかいう野蛮人」を苦々しく思っているあなたにわかってほしいことは、彼らは「あなたが信じている世界観によって知らず知らずのうちに踏みにじっていたものが目の前にあらわれているだけ」なんですよ。

アメリカ文明がそれへの反発者を問答無用の爆撃で黙らせ続けられた時代には、あなたは「自分の正義」に疑いを持つ必要はなかった。しかし、その「秩序」全体が揺らぎ始めている今必要なのは、「自分の対岸にいるヤツは絶対悪」という論理を振り回すことではないのです。

私と一緒に、今後動いていく「国際的外圧による公的な手打ち」とは関係ないところでの、「東アジア人ならではの”祭り”の共有」の動きをはじめましょう。

「自分たちは絶対善・相手側が絶対悪」という意味では、「●●人を殺せ!」というネット右翼さんも、ネット右翼さんをある種の野蛮人扱いして蔑視する立場も、根底的には「同レベル」の「光と影」なんですからね。

(関連記事)

「日中韓が心の底から仲良くなれる方法」という私の計画中の著書についてのメモ書きがこちら↓。「感情」側の問題を扱っているためにちょっと暑苦しい話になっていますが、日中韓の間の問題を小手先の弥縫策でなく解決するには不可欠な話の「広がり」について扱っています。ある出版社の社長さんに「これ自体をミニ電子書籍でお金取ればいいのに!」と言っていただけた力作なのでぜひお読みください。

CHAGE and ASKAの「東アジアツアー」にあったような「うおおおおお」という「野蛮性の共有」=「祭り」の作法から、東アジアの平和は実現するべきだという話はこちら↓

日本の中の「ヤンキー」さんたちは「アメリカ文明が踏みにじったもの」とギリギリ共存できている「分断の世界の最前線的」問題であり、「彼らとの共有関係」を維持したまま「文明社会側」の一員であり続けることで、日本はどこにも基準点がない世界の最先端の希望になれる・・・という話がこちら↓

倉本圭造

経営コンサルタント・経済思想家

公式ウェブサイト→http://www.how-to-beat-the-usa.com/

ツイッター→@keizokuramoto

2014/01/19

ヘイトスピーチvs.カウンター(2014年1月19日、川口・蕨)

注目記事