グローバル人材、グローバル教育、グローバルスクールと教育界はグローバルばやりです。
大学はもちろんのこと、私立の中高一貫校の学校説明会に行くと「グローバル**」の話が多いですね。
自分が大学の教員として、教育費を出す親として「グローバル」をどう考えるかは難しい。
そもそもグローバル人材やグローバル教育の定義も曖昧です。
英語はコミュニケーションの手段としてデファクトスタンダードなので、たとえ技術の分野であっても、英語を身につけることは必須です。
優れた技術があっても英語で表現できなければ認められませんからね。
私も30代でアメリカの大学に留学した時に英語でとても苦労したので、若い時から英語をもっと勉強しておけばよかったと思います。
一方、「日本の大学はグローバル化に遅れてダメ」「日本の大学はアメリカの大学より劣っている」というのはよくわからない。
おそらく日本の大学には留学生が少ない、というのを問題視しているのでしょうが、それが大学にとってそんなに(致命的に)大切なことなのか。
私がわかるのは理数教育だけですが、日本は初等教育から中学、高校、大学とかなり進度が速いです。
私はスタンフォード大学に留学しましたが、このようなアメリカのグローバル大学(?)では大学院の学部・修士課程では講義を受講することが主で研究を行うところは少ない(あるいはない?)。
先週、アメリカのモントレーで開催されたIMW(International Memory Workshop)で私の研究室の修士1年の学生が、卒論の研究成果を英語で発表しました。
学会で発表するアメリカの大学生は博士課程ですから、私の研究室の学生がダントツで最年少なのです。
これは私の研究室が特別というわけではなく、それだけ日本の教育は(少なくとも理数系では)学ぶ内容を先取りしているということ。
こうした日本の教育の良い面については語られることが少ないですね。
「日本の大学は博士が少ないから科学技術立国としてふさわしくない」
とも言われますが、これも一概にそうなのか。
私の研究室では学部4年生(つまり卒論)から研究をはじめ、多くの学生が修士の間に英語で論文を書き、国際会議で論文を英語で発表する、というプロセスを経験します。
一方、アメリカの大学では研究は博士課程からですので、修士課程では研究もしませんし論文も書きません。
もちろん、専門分野を極めるには日本でも博士課程は有効でしょうが、必ずしも全ての人が大学で学んだ専門分野を一生続けるわけではない。
私自身も実は博士課程に行っていません。学部・修士課程では光物性・光エレクトロニクスの研究をしました。
博士進学も考えましたが、修士課程で研究を進めるうちに研究した成果がどのように社会で使われるのかに興味を持つようになりました。
研究は好きだけれども、産業界で開発の経験もしたいと考え、修士課程を修了後に企業に就職しました。
その後、企業に在籍している間に博士を取得して大学に戻りました。
つまり、学部・修士の研究→企業での開発→大学に戻って研究、という経験をしました。
基礎的な研究も企業での実用化の開発も経験したかった私には、学部・修士でも研究ができる日本の大学のシステムはありがたかったと思っています。
大学教員の立場としては、研究室で学生が研究を行い、英語で論文を書き、国際会議で英語で発表、そして世界の一流の研究者・技術者と議論して認められる(あるいは叩かれる)というプロセスが経験できれば、十分にグローバルな教育だと思っています。
それが修士課程でできるならば、それでも良いのではないか。
私にとっては、世界で通用できる人材を育成することが、グローバル教育なので。
日本以外では台湾が似た状況かもしれません。国際会議で台湾の大学の学生は修士課程でも論文を発表してます。また、博士に進学する学生が(アメリカなどに比べると)少ない点も日本に似ています。
台湾の場合は、海外の大学に留学するには、その前に兵役を勤めなけれならないという事情もあるでしょう。
もちろん、異国で学ぶというのは貴重な経験でしょう。私自身の経験では、英語だけでなく、アメリカのビジネススクールでは自分が人種的にもマイノリティである、ということを痛感しました。
人種差別のような、マジョリティでは決して気付かない経験もしました。
こうした経験は、流行語で言うと「Diversity(多様な経験)」なわけで、若い時に経験しておくことは決して無駄ではないでしょう。
また、親としては学費も重要です。日本の大学の学費は上がってきたといえども、それでも海外の大学に比べれば安く、コストパフォーマンスに優れているのは、親としてはありがたい。
留学したら、学費に加えてかなり高額な生活費がかかりますし。
大学の入学試験も違います。日本にはAO入試もありますが、東大などのトップスクールでは試験一発勝負です。
一方、アメリカの大学入試はAO入試のようなものなので、勉強ができるだけではダメで、クラブやボランティアでのリーダーシップ活動歴が求められる。
そういった活動は本来は子供が自主的に行うべきですが、現実は親が全面的にバックアップすることも多いようですね。
子供の課外活動を手伝うために親が会社を休むのも当たり前のようです。日本のペーパー入試以上に親のコミットが必要で、「中高生にもなって親がやるのか?」と、親としては面倒です。
結局、AO入試のような「人物重視」の入試になると、子ども自身の自主性でリーダーシップや課題解決で顕著な成果を出せるのはごく一部。
それ以外の普通の子供は、いかに親が振り付けをして、顕著な成果を演出するかで差が出てくる、というのがアメリカの実情なのでしょうね。
もっとも、日本の大学入試も「人物重視」に変わろうとしているようで、アメリカのように親のコミットが必要な受験になってしまうのですかね。親としては、いささかうんざりします。
また、こうした親がバックアップして履歴書に書けるような経験を子供に積ませるには、経済的・時間的に余裕がある家庭が有利でしょう。
私は自分が専門とする理工系しかわかりませんし、海外の大学といってもアメリカの大学しか知りません。以上で述べたことがどれだけ一般的かわかりません。きっと分野や国が異なると、事情も違うのでしょうね。
まとまりがないですが、子供の教育費を投資する親の立場から見ると、アメリカでしか学べない分野でもない限り、日本とアメリカの大学のどちらが良いか、本当に微妙だと感じます。
日米の大学事情を知るほど、雑誌などに書かれているように単純ではないことがわかってきます。「日本の大学は遅れていて、いかにしてアメリカの大学のようになるか」などが典型ですが。
ちょっと考えただけでも以上のように日米の大学で良い面、悪い面ありますので、自分の環境から判断するしかないですね。
(2015年5月24日「竹内研究室の日記」より転載)