泥沼化する臨床研究不正問題の先にあるもの

今の医療界は20年前の金融業界を彷彿とさせる。科学こそ金融の世界と同様に、透明性を担保したルールのもと、世界とシビアな競争をして結果を出すべきものだ。

昨年の9月に降圧剤ディオバンの臨床試験(Jikei Heart Study)が世界で最も権威ある医学雑誌のひとつである英国「ランセット」誌から撤回された。

しかし、事態は益々悪化している。

問題の真相は未だ不明なままだ。ついには、厚労省がノバルティス社を告発し、同社には家宅捜査が入るに至った。しかも、事態はディオバン等の臨床研究問題にとどまらず、STAP細胞をはじめ次から次へと研究への疑惑が出てきていて、研究不正をメディアで目にしない日が珍しいぐらいである。

先日、旧知の「ランセット」誌の編集者と電話会議をした際に、彼は「日本は一体どうしたんだ」と悲しい声でつぶやいていた。

ディオバン問題は、一人の医師の「ランセット」誌へのコメントから始まった。そして匿名の告発がネットで即時に広まる。専用のサイトや内部の告発者と見られる個人サイトも現れた。

今では、アカデミックサークル(ムラ)にいなかった人々が、それも国境を超えて、論文やそこに示されるデータ、画像にアクセスできるようになった。

こうした動きに、長い間ぬるま湯にいたアカデミックサークルや伝統ある組織は適正な対応をとれずにいる。何よりも対応が遅く、また身内で調査を行うためにいつまでも疑義が晴れない。

臨床研究の不正は何も日本だけの問題ではない。臨床研究先進国の欧米でもここ20-30年間、大きな議論になっているのだ。

英国医学会雑誌(BMJ)の元名物編集長のリチャード・スミスは、長年の経験から、研究の不正は個別の問題ではなく構造的問題であり世界的問題である、と警鐘を鳴らしている。

世間では、成果主義の弊害、すなわち、良い論文をインパクトの高い雑誌に出版しなければならないというプレッシャーのせいだ、と言われることが多い。しかし、リチャード・スミスは「不正は人間全ての行動に存在する」と訴えている。

さらに、「研究不正は、大学や病院、会社レベルで調査しても、その調査能力と調査へのコミットメントが欠如している場合が多く、また自分の組織の悪評は避ける傾向がある」とし、いわゆる内部調査委員会の限界を指摘している。

対応として大切なことは、徹底した原因究明である。もちろん、きちんとした規制の整備や体制の支援も重要であるが、強すぎる規制は研究活力を削ぐ。形式的な倫理セミナーや研修の多くは時間の無駄である。

研究不正を事前に全てチェックするのは不可能であり、いかに事後チェックをできるか、つまり、不正がばれうる仕組みをつくるかがポイントだ、と私は思う。

まずは、あらゆる論文について、専門家ムラに加わっていない人も含めて、だれでも容易にアクセスできるようにすることが大切である。東大の博士論文もようやく今年からウエブに公開されるが、過去のものも含めて、できる限りオープンにすべきであろう。

また、各学会や国からの資金を集約して第三者性の高い研究不正オンブズマン組織(幹部は研究ムラ以外の人)を設置する。匿名のものも含め不正の疑いについての通報を受けて調査し、専門性の高いものについては、論文執筆者としがらみのない海外研究者等に調査を委託する。調査結果については、研究ムラ以外の委員の検証を行ったうえで決定する。

検証結果は、問題なしも含めできる限り公表する。そして不正には厳正な処罰を下すことだ。

今の医療界は20年前の金融業界を彷彿とさせる。科学こそ金融の世界と同様に、透明性を担保したルールのもと、世界とシビアな競争をして結果を出すべきものだ。

淘汰されるべきものが淘汰されずに残っているとすれば、それはフェアな競争ではない。フェアでないことは国際社会で最も信頼を失う。

度重なる不祥事は日本の医療界の国際的信用を落とし、多国間研究に参加できない等創薬活動にも支障を来すことになり、ひいては我が国の医療産業の成長の足を引っ張る。国際的信頼を回復するためには新たなガバナンスの仕組みが必要だ。

特に日本版NIHが設立される今、研究不正を疑われている組織や機関がどう対応するかで、日本の医学研究の将来が決まると言っても過言ではない。

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