現代社会こそ仏教がフィットする

昨年の寺社フェス「向源」で、大好評を得たワークショップの一つ「仏教プラクティス」は、異なる宗派の修行を一度に体験できる斬新なプラログラムだったが、この中で天台宗の坐禅である「止観」を指導した阿純章さんに、今あらためて仏道修行にスポットを当てることの意味について話を伺った。
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昨年(2014年)の寺社フェス「向源」で、大好評を得たワークショップの一つ「仏教プラクティス」は、異なる宗派の修行を一度に体験できる斬新なプラログラムだったが、この中で天台宗の坐禅である「止観」を指導した阿純章さんに、今あらためて仏道修行にスポットを当てることの意味について話を伺った。

■手放す天台宗、なりきる真言宗、任せる浄土宗

仏教プラクティスをやってみて、私自身たくさんの新たな気付きがありました。これまでも超宗派で行事を行うことはあったものの、あくまでどの宗派にも共通する最大公約数的なところ......たとえば、お釈迦様の降誕会(誕生日)や成道会(悟りを開いた日)、または大きな災害の合同慰霊祭などを集団で行うなど、つまりは大枠で「仏教」として一括りにできる行事や儀式ばかりでした。そうした場ももちろん重要ではありますが、そこで意識されるのは宗教としての同一性であり、「違い」ではありません。ですから、お互いの教義について理解を深める場にはなってこなかった。

仏教の最終目標は、悟りを開いてブッダの境地に至ることです。その点、各宗に相違はありませんが、アプローチが異なります。言い換えれば、その違いが「宗派」なのです。

仏教プラクティスでは、参加者の皆さんに天台宗の「止観」、真言宗の「阿字観」、浄土宗の「念仏」を体験していただきました。この三者は、禅定に至るために行うという点では共通しますが、やり方が違います。

ごくごく簡単に説明すると、止観はいわゆる坐禅。阿字観は大日如来を表す「阿」の字を見つめながら行う瞑想。念仏とは仏の名を口に出して唱えることで無我の境地に至ろうとする行法です。私なりのキーワードで整理すると、止観は「心を手放す」、阿字観は「仏になりきる」、念仏は「仏にすべてを任せる」ということであるように思います。

他宗の修行をやってみるというのは、私にとっても大変新鮮な体験になりました。少々喩えは悪いかもしれませんが、三つの修行方法を同時に体験することで、お酒の飲み比べのように、それぞれの特徴が際立って感じられたのです。そして、それはそれぞれの良さを理解する、ということに繋がりました。

良さを理解するということは、大変重要なポイントだと思います。仏教に興味はあるけれども、なにをすればいいのかわからないという方にとって、自分に合う修行方法を選ぶことができるのは大きな利点になるからです。

仏教の修行体験自体は様々なお寺でやっているものの、そこには比較という視点はありません。ですから、自分には合わないなと思ったら、それでおしまいということになるかもしれない。しかし、仏教プラクティスのようなやり方だと、いいなと思うものを選んでもらうことができる。これは今までなかった試みだったと思います。

■21世紀に求められる仏教、そして天台宗を目指して

現代の日本社会において、宗教に対するイメージは必ずしもプラスのものばかりではありません。向源に来る方々は、比較的宗教に肯定的、かつ好意的だと思いますが、世の中には宗教とはすなわち排他的イデオロギーであり、怖いもの、近づいてはいけないもの、という認識を持つ方々も少なからずいるかと思います。

しかし、仏教に関していうならば、これは大きな誤解です。

仏教は、何か一つの正しい神や教えがあり、それを絶対的に信じなくてはいけないという教えではありません。むしろ、「絶対である」という思い込みを外していくものです。

仏教の基本的理念は縁起。つまり、世の中の全ては関係性において成り立っていることを理解するのが大きな目標の一つです。

全宇宙はいわば巨大な網のようなもので、「私」という個は網目の一結びです。結び目はすべての存在と結ばれているがゆえに「個」では存在できない。ですが、同時に、その個がなければ網全体も存在できません。全宇宙が自分という存在を支えながら、自分もまたこの宇宙でかけがえのない一点として存在するということを信じるのが、仏教の信仰の本質であると私は理解しています。

そして今、西洋的な「我」を社会の基板としてきた戦後社会が成熟し、経済中心のやり方が行き詰まるのを目の当たりにして、仏教的な価値観を自然に持つ人が増えてきているような印象を受けることがあります。仏教の知識が全くない方でも、「そう、そう。わたしも同じことを思っていました」と仏教の思想に共感される方が多いのです。精神文化が急速に変容しつつある21世紀という時代は、仏教が国教として真に花開いていった平安時代のそれに戻りつつあるのではないかという感覚さえ覚えることがあります。

私自身、仏教プラクティスをやることで、天台宗の僧侶として今一度天台宗の役割を見直すべきではないかという考えに至ることができました。

もともと天台宗とは、各宗派の教えを内包するものです。

本山である比叡山は、江戸時代に入るまで、一貫して仏教の総合大学としての機能を果たしており、中世に生まれた各宗派の祖師方は比叡山で様々な教えを学ぶことによって、己が最善と信じる道を見つけていかれました。

ですから、各宗の良さを理解し、それぞれ平等に価値があるということを認めつつ、教えを求める人々に仏教を俯瞰できるマップを示すことは、これからの天台宗が担う大切な役目ではないかと思うのです。今後、仏教プラクティスを始めとした超宗派の活動を行うことで、日本の伝統の教えを再発見し、現代の人々に届けることができればと考えています。(門賀美央子)

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