原生林と川と湖と氷河に囲まれた南米チリのパタゴニア地方で暮らす私たちの日常のストーリーを綴っています。今回は、その17回目です。
「シンプル・ライフ・ダイアリー」 8月30日の日記から。
セルジオが今朝、車で迎えに来てくれた時、あたりには濃い霧が立ち込めていた。セルジオは、私たちがメンバーになっている有機農業協会のディレクターだ。
今日は、有機農業協会が主催するキノコの講習会の最終日で、実際にフィールドへ出て、それまでに学んだキノコの採取の仕方と判別方法を実践し、食用のキノコを採取して、料理をして食べようという計画だった。
車の中には、協会のメンバーのダニエラと、300キロ離れた町、コヤイケからキノコの講習会のためにやって来た講師のディネリが座っていた。挨拶を交わし、早速、私たちは、アンデス山脈の麓にある美しい谷、キント谷へと向かった。
「わあ!あれ、見て」
砂利道を15分ほど走った頃、誰もが、感嘆の声を上げた。
いつの間にか、霧が晴れていて、雲の合間から、壮大な雪山が顔を出していた。セルジオは、車を止め、みな外へ出て写真を撮り始めた。私も外へ出て、その姿に、ただ、見とれた。ゆるくカーブを描きながら、砂利道が緑の原生林の森へと続いている。道の両脇には、草原が広がり、その向こうに、雪を抱いた青い山々が、城のように聳え立っていた。
「天国への門だ!」ポールが叫んだ。本当にその通りだ。まるで、地上の天国のようで、現実の世界とは思えなかった。
それから、しばらく走り、メインの道路から狭い小道へと入って行った。小さな農場をいくつも通り過ぎ、牛たちや羊たちが、のんびりと草を食べている風景の中を走ると、クアルト川の岸辺に着いた。氷河から流れてくる川の水は、透明なセルリアン・ブルーで、まるで宝石のようだった。
「この川に流れ込んでいる水は、5つの氷河から来るんだよ」と、ポールが、みなに説明し、「5月に来た時に、この森で、たくさんキノコをたくさん見つけたんだ」と、川岸にある森を指差した。
「OK。じゃあ、早速、行きましょう!」
ディネリは、浮き浮きした様子で先頭を切って、森へ入って行った。この森は、若いコイウエの森だ。コイウエは、チリ南部に植生するブナの一種で、繊細な木の葉の間から、太陽の光が煌いていおり、まるで、レース刺繍のようだった。森の地面は、落ち葉や枯れ枝に覆われ、所々に、瑞々しい緑のコケが生えていた。
「あ、見て!」
しばらく、歩くと、ディネリが声を上げた。彼女が拾い上げた枝を見てみると、小指の爪の半分ほどの大きさのキノコが枝に生えていた。光に透かしてみると、半透明のオレンジ色で、グミのようだ。森の中で、こんなに小さなキノコを見つけられるなんて、大したものだと関心した。彼女は、確かに、キノコを見分けられる目を持っている。
すると、彼女は、もう一本、小枝を拾い上げた。そこには、先ほどのキノコよりさらに小さいサイズの真っ赤なキノコが、いくつも列になって生えていて、これも、やはりグミのようだった。
「わあ、きれい」
その神秘的な美しさに、私は、心底、感動した。
「これは、赤ちゃんなの」と、ディネリは言った。「大きくなると、オレンジ色になるんだよ」ディネリは、比較するのにちょうどいいと、二本の枝を並べて、オレンジと赤いキノコの写真を撮った。
「へえ」
私が、じっとそのキノコを見つめていると、ディネリは、ずいぶん先に進んでいて、他のキノコを見つけていた。今度は、オレンジ色と茶色が混ざったキノコでフリル状になっていて、上下にいくつも層になって、朽ちかけた木から生えていた。
「これは、食べられるの?」と訊くと、ディネリは首を振り、「これは、食用じゃないの。枯れた木を餌にしているキノコで、木が腐って土に返る手助けをしているんだよ。キノコは、地下に、ものすごい大きなネットワークを広げていて、木の根っこ同士をつないでいるんだよ。そのネットワークを通して、木々は、水や栄養分を配給したり、情報を伝えたりしているの」
「へえ」
私は、地下に広がるネットワークを想像した。
こんなに小さな存在が、森の中に住んでいて、他の命を生かし、また、他の命に生かされていると思うと、驚きだった。森には、たくさんのレイヤーの命が存在し、すべての生き物の間に、繊細でバランスの取れた関係が存在しているのだ。
「それは、もしかしたら、人間の世界でも同じなのかもしれない」
ふと、そんなことを思った。目には見えないけれども、私たちがすることは、他の人たちに影響を与えていて、それは、自分自身にも返ってくる。自然界の中に存在する全てのものに役割と目的があって、すべてが影響しあっているのなら、人間の世界でも同じはずだ。
「そろそろ、移動しようか?」
ディネリの声で我に返った。川の向こう岸には、私たちが10年前に買った土地がある。まだ、何も建てていないけれども、みな、私たちの土地を見たことがないので、ぜひ、そこまで歩いて行こうということになった。
クアルト川に架かる木造の橋を渡り、小さな農場を通って、私たちの土地へ行った。ここは、クアルト谷と言う名前で、何十年も前に、山肌から落ちてきた大きな岩が散在している。今では、岩から木や他の植物が生え、緑の苔に覆われて、日本庭園のように見えた。それらを見ながら、私たちの土地を歩き、隣接している森へ行った。
この森は、最初に行った森より古く、木々が鬱蒼と生い茂っていて、樹齢100年以上の木がたくさん生えていた。私たちは、キノコを探すために、下を向いて歩いていたのだけれど、誰もが、上を向いて、大きな木を崇めずにはいられなかった。と、突然、鳥の鳴き声が聞こえた。声のする方を見ると、キツツキが木から木へと飛んでいくところだった。みな、思い思いに、森を散策した。
すると、しばらくして、木々の向こうから歓声が聞こえた。ディネリが、何かを発見したようだ。藪を掻き分けて、ディネリに近づいていくと、彼女は、大きなキノコの写真を撮っていた。
「わお!」思わず、叫んだ。それは、サルノコシカケに似た種類のキノコで、ゆうに、50センチはあった。
「木乃実、キノコの上に手を置いてくれる?菌学者の友達が、この種類のキノコを研究しているの。どれくらい大きいか、見せてあげたいんだ」ディネリに言われて、キノコの上に手を置いた。
すると、今度は、ダニエラが、小さなオレンジ色の卵のようなものが、木の幹に、たくさん集まって生えているのを見つけた。まるで、イクラのようだった。
「これは、キノコ?」
ダニエラが尋ねると、ディネリは、それを見て、「うーん、虫の卵だと思う」と言いながら、さらに、近づいて、よく観察していたかと思うと、突然、歓喜の声を上げた。
「あれ、これ、キノコだよ!足が生えてる!初めて見た!」
彼女の手の平には、小さな赤い卵だと思っていたものが1つ乗っている。よく見てみると、赤い卵と思っていたのはキノコの傘で、そこから、ひょろりと白い柄が伸びていたのだった。
「ほおお」
ダニエラも私も、驚嘆した。キノコは、5ミリにも満たない大きさで、まさに、ミクロコスモスの世界なのだった。
それから、私たちは川まで戻って、岸辺に座り、持参したコーヒーを飲み、スナックを食べた。セルリアン・ブルーの川面は、時折、光によって、エメラルド・グリーンに見えた。
「ここは、本当に美しい場所だね。来たことなかったけど、すごく気に入ったわ。春になったら、もう一度、キノコの採取に戻って来るね。その時は、また、一緒に来よう。次回は、食用キノコを見つけて、私が料理するよ!」ディネリは、とても、満面の笑みを浮かべて言った。
今日、食用のキノコは見つからなかったけれど、それでも、とても幸せだった。食べ物ではなく、生き物としてキノコを見ることができ、色も形も、バラエティーに富むキノコの世界を垣間見て、キノコがとても愛おしくなった。食べられるキノコを見つけていたら、食べられないキノコの美しさを愛でることもなかったかもしれない。
キノコの王国は、限りなく美しく、奥が深いのだった。