パタゴニアの森から海へ旅する

森は、命で溢れていた。何千万本もの、木々が生い茂った広大なスペースの中で、私の存在も大きく広がったような気がした。

パタゴニアの森から海へ旅する

原生林と川と湖と氷河に囲まれた南米チリのパタゴニア地方で暮らす私たちの日常のストーリーを綴っています。今回は、その27回目です。

「シンプル・ライフ・ダイアリー」11月30日の日記から

今朝は、晴れて、日差しが強かった。丘を降りると、昨日の雨で草が濡れていて、靴がびしょ濡れになった。空は青く、雲ひとつない。春を飛び越して、一気に夏が来たようだ。

ゲートの外で、ハビエルが待っていた。「おはよう!」と、挨拶をして、ハビエルの車に乗る。今日は、チリのIDカード(身分証明書)を更新するために、チャイテンにある住民登録所に行くのだ。チャイテンは、ラフンタから150キロ北にある太平洋に面した小さな港町である。

車に乗ると、道路と平行に流れているパレナ川が見えた。パレナ川は、毎日、色が変わる。今日は、空の青を映して、濃いブルーだ。森は、芽吹き始めた新緑で輝き、山頂は深い雪で覆われていた。

「春は、いいなあ。どこを見ても、新緑がきれいだ」と、ハビエルが言った。

「今日、チャイテンに行けてよかった」窓の外を眺めながら、私は、昨日のことを思い出していた。

IDカードを更新するために、元々は、300キロ南にあるプエルト・アイセンという、もっと大きな町に行くはずだった。政府のサイトで調べたら、IDカードの更新するには、外国人は、出入国管理部門がある警察署に行かなくてはならないと書いてあって、それがある最寄の町は、プエルト・アイセンだったのだ。

でも、プエルト・アイセンへ行く道は、工事中で、土砂崩れが起きたりして、何日も閉鎖される可能性があったし、往復の日にちを入れて、5日ぐらい家を明けなければならない。今、ちょうど、野菜の苗が育っている時期で、毎日、水をやる必要があるので、家を空けるのは、避けたかった。

「もしかしたら、奇跡的にラフンタで更新できるかもしれない」

そう思いついて、昨日、最近オープンしたばかりのラフンタの住民登録所に行ってみたのだった。

すると、住民登録所の女性は、こう言った。

「警察署に行かなくても、ここで、IDカードの更新、できますよ。でも、外国人の方が登録できる設備が整うのは、12月15日以降になります」

なんと、残念な。私たちのIDカードは、12月11日で期限切れになってしまう!

「期限が切れた後でも、更新できますか?」試しに聞いてみた。

「できないことはないけど、手続きが複雑になるので、期限が切れる前に更新した方がいいですよ。プエルト・アイセンに行かなくても、チャイテンで更新できます。バスは、週に3回出ています」

がっかりした。どうしても、家を数日、空けるのは、避けられそうもなかった。すると、友達のマカレナが通りかかり、とても、いいアドバイスをくれた。

「チャイテンへ行く道路は、ほとんど舗装されていて、車で行けば、2時間で着く。IDカードの更新はすぐできるから、日帰りできる」と言うのだ。それは、願ってもないことだった。早速、ハイヤーサービスをしているハビエルに連絡すると、運良く、スケジュールが空いていて、車の手配もできた。

ところが、一つ、忘れていたことがあった。提出書類のコピーを取らなければいけなかったのだ。気づいた時には、夜遅く、ラフンタのオフィスは閉まっていた。

「もし、チャイテンにコピーする場所がなかったら?あっても、コピーマシンが壊れているとか、トナーがないとか、店が閉まっているとか、何かの理由で、コピーができなかったら???」

不安が、どっと押し寄せてきた。チャイテンは、9年前の火山爆発で町が灰に埋まり、住民は全員退去。数年前に、やっと復興し始めたばかりだ。不安が募るのも、無理はなかった。そこで、必要な書類を写真に撮り、プリンターで印刷した。

「150キロも旅して、書類不足なんてことのないように、全部、書類を揃えておくに越したことはない」と、ポールは念を押したのだった。

「今日は、ラッキーだ」ハビエルの声で我に返った。車は、順調に走っていた。道路工事で何度か、止められたけれど、5分も待たずに通してもらえた。書類も全部、揃えたし、何も問題はない。この分なら、11時ぐらいに着きそうだった。

と、その時、カーブを曲がったところで、ハビエルが、ブレーキをかけた。一方通行なのに、大きなコンクリートミキサーが、こちらへ向かって来たのだ。私たちの車に気づいて、ミキサーは方向転換をしようとバックしたのだが、道路の側溝にズルズルと、はまってしまい、道路をブロックしてしまったのだった。

トラックが道をブロック
トラックが道をブロック
Paul Coleman

「ああ、起きてほしくないことが、起こった!」ポールが、叫んだ。

ミキサーの運転手は、前進しようとしたけれど、車は傾いて、さらに側溝にはまった。横転しなかったのは、ラッキーだった。運転手が、車を降り、こちらへ向かって歩いて来た。

「牽引してもらわないといけないから、他の作業員がいる所まで乗せて行ってもらえないか?」と、運転手は言った。

「トランシーバー、持ってないの?」と、ハビエルが聞くと、「持ってない」と答えた。

仕方がないので、運転手を乗せて、他の作業員がいる場所まで戻り、牽引できる大きなトラックを探して、行ったり来たりした。道路は通行止めになり、車の長い列ができて、人々はいらいらし始め、車を降りて、抗議し始めた。チャイテンには、空港と港がある。長蛇の列の中に、飛行機やフェリーに乗るために、先を急いでいる人たちがいた。

この時点で、もう、30分が経過 していた。ようやく、大きなトラックが来たけれど、牽引に失敗し、もっと大きなブルドーザーを探しに行かなければならなかった。

住民登録所は、午後2時に閉まる。十分、時間があると思っていたけれど、それも、怪しくなって来て、心配になり始めた。すると、もっと大きなブルドーザーが来た。でも、それも、牽引に成功するかどうか、わからなかった。ポールも、そわそわし始め、車を降りて、魔法瓶からコーヒーを注いで飲み始めた。ポールは、いつも、最悪のシナリオになった時のことを考えて、解決法を探す。

コーヒーを飲み終わると、ポールは、言った。

「もし、2時前にチャイテンに着けなかったら、ハビエルにはラフンタに帰ってもらって、僕らは、チャイテンに一泊しよう。オフィスには、明日の朝、行けばいいし、帰りは、ヒッチハイクで帰ってくればいい」

「うん、そうだね。OK」

次の行動を決めると、ポールは、ずっと、リラックスしたように見え、私も、安心して、気が楽になった。

すると、面白いことが起こった。執着を手放して、必要な手続きは明日やろうと決めた途端に、道路がオープンしたのだった。

「わーい!」私たちは、喜びの声を挙げた。チャイテンまでは、あと、1時間。午後12時には着きそうだ。しばらく走ると、氷河が見えた。氷河から流れてくる川に沿って走り、雪山を背景にして、美しいイェルチョ湖が見えると、まもなく、チャイテンに着いた。

イェルチョ湖と氷河
イェルチョ湖と氷河
Paul Coleman

「わあ、潮風だ!」チャイテンに着くと、海の匂いがした。

チャイテンは、3年前に来た時とは、比べ物にならないくらい復興していた。3年前は、まだ、建物が火山灰に埋まっていたのに、その面影はなく、新しい店やレストランができて、銀行まであり、住民登録所も、新しい設備が整えられていた。

係りの女性は、親切に笑顔で対応してくれた。オフィスには、日本人形がたくさん飾って、驚いた。「私、日本のファンなの。庭に、今、日本庭園を作っているところなのよ」と、彼女は言った。役所の人が、親しみやすいのは、ありがたい。チリでは、役所に行くと、気さくに対応してくれることが多いのだ。笑いながら世間話をしている間に、あっという間に、手続きは終わった。結局、準備していった書類は、半分以上は必要なかった。

「思ったより簡単に済んでよかった!」オフィスを出ると、ポールが溜息をついた。

「さて、バケーションだ!」

ハビエルを誘って、魚料理で有名なレストランに行き、白身魚のフライを食べた。外はカリッと揚がっていて、肉厚で、中は、ジューシー。とても、美味しかった。

それから、波止場に行った。青い海と白い砂浜があり、どこまでも続く森が見えた。

森と海が出会うビーチ
森と海が出会うビーチ
Paul Coleman

私は、ハビエルに言った。

「私たちが、初めてパタゴニアに到着したのが、この波止場だったんだよ。フェリーから、この壮大な森を見た時に思ったの」

すると、ハビエルが後を続けた。

「探していた場所は、ここだって!」

「そう!」

ベンチに座って、しばらく、寄せては返す波を眺めていた。森と谷に囲まれたラフンタとは、全く違う世界だった。潮風を胸一杯に吸い込んで、私たちは帰路についた。

帰り道、ポールが川に降りて、氷河の水を水筒に入れた。水は、きーんと冷たく、甘かった。

氷河から流れる水を飲む
氷河から流れる水を飲む
Konomi Kikuchi

「本当に素晴らしい場所だよね。3時間、車で走って来る間に、海と氷河と原生林と川と湖が、全部あるんだから」と、ポールが言った。

10年前、初めてパタゴニアに来た時に通ったのは、この道だった。壮大な森から、圧倒的なエネルギーを感じて、感動したことを覚えている。

森は、命で溢れていた。何千万本もの、木々が生い茂った、未だ、人が入ったことのない密林。広大なスペースの中で、私の存在も大きく広がったような気がして、無性に嬉しかった。

今では、3日、ラフンタを離れると、森が恋しくなる。私は、すっかり、森の住人になってしまったようだ。

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