母の乳がんを乗り越えて――予防的な乳房切除でわかった奇跡

私を大きく変える人生の出来事。

9月は、私にとって大きな敵です。不吉なことばかり起こるのは、季節の変わり目だからでしょうか。いずれにせよ、9月は嫌いなんです。母が26年前に乳がんで亡くなったのも9月でしたし、2年前に兄弟が亡くなったのも9月でした。

ではなぜ私は、予防的な両乳房切除手術を、この恐ろしい月に受けることにしたのでしょう? それは9月という月に挽回のチャンスを与えるためです。そして、9月は私の期待に応えてくれました。

どんどん高まる祈り、愛、そして確信のなかで、9月は私を引っ張っていってくれました。すごく元気づけられ、私は後ろを振り返ることもなく、手術の日は準備ができた状態で目覚めました。

■手術について

夫と私が午前9時に病院に着いたとき、1人の友だちが出迎えて、私たちと一緒に祈ってくれて、入院手続き中も付き添ってくれました。3人で手をつなぎ、友だちが私にヒーリングオイルを塗ってくれたおかげで、イライラも消え、心も落ち着きました。

その後、看護師が既往歴を数え挙げたとき、不安感は解けて涙に変わりました。その涙に声を与えたくて、私は説明しました。この手術を受けることにした理由は母にあること。母を若くして失くすことになった乳がんの犠牲になって、私までも死にたくない。その日、私はこの病気の恐ろしさ、奈落のときを見つめて、ついに返事をしたのです。自分のために、そして夫と子供たちのために。それゆえに私たち5人は永遠に結びつけられました。言葉が部屋にあふれて意味で照らされ、気分をなだめてくれました。

手術の9日前に子供たちと。 撮影 エリザベス・オダ

センチネルリンパ節検査の処置が終わり、手術の準備が整いました。私の形成外科医がにこやかに入室してきました。彼は赤と黒のマーカーで私の上半身に印を描いていきました。手術室に入ってしまうと、私が違ったふうに見えるから、目印だとのことです。私はその印を「芸術家の印」と呼びました。眠りについたときよりも、芸術的な外見になって目覚めたから。

次は、腫瘍外科医の番でした。元気で明るく心強く、愛と判断力を同等に備えた彼女は、私を元気づけてくれ、手術直前に質問しても答えてくれました。最後は陽気な麻酔専門医で、手術中に私が受ける麻酔(ドラッグ・カクテル)について説明してくれました。「私の仕事は、あなたの安全を守ることです。あなたが眠っている間、私はずっとあなたと一緒にいます」とのこと。彼が点滴装置に弛緩薬を入れると、ものの数分で私は、青と黄色の眠気の海でウトウトしていました。手術室に運ばれたところが最後の記憶です。そこで麻酔専門医に仕事は何か、と聞かれました。「ライターです」と答えて、私は意識を失いました。

それは5分間だったようにも、非常に長い時間が経ったようにも思えました。全身麻酔によって、すっかり時間の感覚を失ってしまいました。私は天国のような別世界から漂い戻ってきました。最初に思ったのは、「神様ありがとう、手術がすんで私は目が覚めたわ。終わって本当に良かった。夫はどこなの?」ということでした。この気持ちを、実際に言葉にして看護士に伝えられたかどうかは分かりません。言葉を発するのは、2人の子供を抱えながら片腕懸垂をするような重労働のように感じられました。

その日のそれ以後の出来事は、夢のようにぼんやりとしています。

その後、夫と面会し、入院した部屋で一緒に過ごしました。眠ったり目覚めたりをくり返しながら、右腕に飾られている点滴装置に気づきました。モニターが左の人差し指を挟んでいて、鼻には酸素チューブ、尿道には排泄用カテーテル。ふくらはぎには血栓予防スリーブが設置されていて、余分な血や液体を排除するため、2本のドレーン管が左右に接合されている状態......。手には、1時間に数回、鎮痛剤を点滴装置に追加投入できるスイッチを握りしめていました。

麻酔薬が体内を巡る間、ひどい吐き気が起こり早朝まで静まりませんでした。氷、吐き気止めの点滴とペパーミントオイルが、短い眠りの友だったように記憶しています。

早朝には胃が落ち着き、看護師がドレーン管と点滴以外のチューブをすべて外してくれました。外科医が2人とも訪ねてきて、手術は予定どおり正確に行われたと伝えてくれました。夕方には家に帰り、病への勝利を祝いました。

自分の決断を最後まで遂行したのです。意外にも、術後も体をほとんど不自由なく動かすことができ、自分で服を着ることも可能でした。目立った傷もなかったです。初めて鏡を見たときは信じられませんでした。上半身に"くびれ"がありました。胸はリアルに見え、前より豊満。肌質も変わっていませんでした。見た目も感覚も不自然なところはなかったのです。多少の違和感と少し麻痺はありましたが、知覚は十分でした。傷口は小さく薄くて、縫い目ではなく医療用接着剤で閉じられていました。そのうち傷は小さくなって、もしかしたら見えなくなるかもしれません。

ああ、母に話したい。そう熱望している自分がいることに驚きました。自分の決断、手術の全容や痛みについて、母と分かち合いたいと思いました。母からの慰めが欲しかったのです。辛いとき、順調なとき、敗北したとき、そして勝利したとき---。私が何歳になろうとも、常に私にはママが必要だということを彼女に伝えたかったのです。

私を大きく変える人生の出来事は、常に喜びと悲しみが絡み合ったものです。誠実であり続けるには両方が必要です。今回も、両方がそろっていました。

■予想外の勝利

1週間後、腫瘍外科医が私を診て、看護師がドレーン管を抜いてくれました。ドレーンの除去にも少しホッとしましたが、最終病理レポートの結果で深い安堵を覚えました。リンパ節、その周辺、肌、すべてに異常なしでした。がんもありませんでした。ですが、左の胸部の下のほうに、ごく初期の異型乳管過形成(ADH)のサインがありました。外科医に去年除去してもらった細胞と同じタイプのものです。そのADH細胞の一部は、第一段階の非浸潤性乳管癌(DCIS)細胞に変化していました。それ自体は、直ちに命に関わるものではありません。DCISは治療されずにいると、命に関わる侵襲性のがんにつながることがあります。

その細胞はとても小さくて新しいものだったため、乳房切除でしか発見できなかったでしょう。見つけるためには、すべての胸の組織が取り除かれて、1週間かけて1ミリごとに詳細に検査される必要があったということです。

「あなたは世界一幸運な女性です」と外科医は言いました。「これは私たちが発見できる前に、侵襲性癌に変化していたかもしれません」。乳房切除はDCISの完全な治療法です。なので、マンモグラフィーもMRIも生検ももう必要ないということです。もちろん、薬や放射線も不要!

探していたわけではありませんが、最も賢明な道を選んだという明確な確証が得られました。去る6月に首に感じた熱、あれは幻ではなかったのですね。嵐が私の体内を吹き荒れていたのです。そして私はぎりぎりそれを逃れました。

その知らせを聞いてからの日々は、畏敬の念と深い感謝に満ちたものになりました。自分の胸が何か病を引き起こすかもしれないことと初めて知ったのは去年の夏で、兄弟の自殺から1年も経っていないときでした。悲劇を前に、私は疲れ果てていました。祈りは母も兄弟も救ってはくれず、2人とも40代で亡くなっていたのです。次は私の番なのか? 1家族に3人の死は残酷すぎるように思えました。私の祈りが神に届いていたとしたら、完全に無視されている......と考えたほどです。

乳房切除と予想外の新事実は、私が永遠に生きることを意味している訳ではないです。50代まで生きられる保証もないです。突然、悩む必要がなくなったわけでもありません。ですが、この経験は苦しみと不安の真価を知ったように思います。人生の流れに逆らうときは、何とか切り抜けていくためにお互いが必要なのです。

私の母と兄が帰ってくる訳ではありません。でも私は生きています。私は自分の話をシェアして希望を与えることができます。奇跡はそこかしこにあります。私たち自身の中にさえも、です。奇跡は私たちを回復し、奮起させくれ、前に突き進ませてくれます。その道には確かに予期せぬ出来事が並んでいるのです。

この記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。