東大駒場の人権教育で語った「私が苦しみ、もがき、つかんだ未来」 李ヨンミ

「一言で言うと北朝鮮は国全体が大きな牢屋のようなものです」

この原稿は5月に東京大学駒場で行われたゼミの人権教育に招かれた元脱北者の李ヨンミさん(30歳代)の話の原稿を本人の同意を得て採録するものです。(編集部)

3 年間脱北を準備した

私は2012年に北朝鮮から日本に来た李ヨンミです。簡単に自己紹介と経歴を言います。

私は朝中国境の北朝鮮側の都市で生まれました。両親はともに在日二世で日本生まれです。

1960年代に朝鮮総連が組織した帰国運動により、北朝鮮に渡りました。両親は北朝鮮で結婚して私が生まれました。

私は北朝鮮で教員大学を卒業し、その後小学校で教員として6年間勤めました。日本に来る3年前に教員をやめて闇市で商売をし、脱北の機会を探し準備しました。

2012年3月に北朝鮮を出て北朝鮮難民救援基金のサポートで2012年8月に日本へ無事に入ることができました。

最初は日本語ができなくて大変だったんですけれど、夜間中学校や通信制高校で日本語を学びながら高卒認定を受けました。

今は東京で医療系専門学校に通っています。

帰国者とその子どもは差別された

これから脱北した理由や経緯を話します。

2000年頃、私は北朝鮮から出ることを決めました。小さい頃から私は帰国者の子供として色んなことで差別されました。

「日本から来た人やその子供は信用できない」ということで、朝鮮労働党の幹部はもちろん、警察とか軍隊の幹部になるのも制限されました。

私が生まれる前1960年代から1970年代まで日本から帰国した在日は9万人位でした。そのうち1800人が日本人妻でした。

保衛部(秘密警察)が活躍当時、北朝鮮は、警察とは違う金日成の名誉と安全を守る目的で保衛部(秘密警察)をつくりました。

政府は、「帰国者の100人中一人は必ずスパイだから、監視して1ヶ月に何十人捕まえるように」各保衛部に命令を下しました。

保衛部の人はたとえば逮捕のノルマが30人だったら、30人を満たさない場合処罰されるので必死で捕まえました。

知り合いとか親から聞いた話ですけど、ある人は友達と飲み会で「ここの生活になかなか慣れないし、辛いから日本に帰りたいな」と言っただけで捕まりました。

他の人はサッカーを見にグラウンドに行った時に雨が降り、応援用として手に持っていた北朝鮮の国旗を敷いて座りました。それが北朝鮮を侮辱することになって捕まりました。

「北朝鮮帰国者」の中には、みなさんと同じ20代で、日本で高校や大学に通っていた人達もおおぜいいました。

それなのに、朝鮮総連の宣伝に騙され、「朝鮮人としての差別がない楽園の祖国へ行きたい」という一念で日本を出ました。

しかし祖国で待っていたのは貧乏な生活と監視でした。

スパイ、逆族として政治犯収容所へ

それがあんまりにも辛く悔しくて、帰国者同士でお酒飲んで当時日本で流行っていた美空ひばりの歌を歌って捕まった人も結構いたのです。

日本からの帰国者は経済犯として捕まっても、スパイまたは逆賊として扱われたのです。

保衛部に捕えられたら自白するまで酷い拷問を受け、大半はやってもいないスパイを自白して政治犯収容所に入りました。

3ヶ月間保衛部に捕まって自白しなかった人が一人いましたけど、釈放されてすぐアパートの上から身を投げて自殺してしまいました。

北朝鮮の収容所は無期懲役者が送られ、扱いは人間ではなく、獣みたいに扱われます。大半の人は1年以内に病気で亡くなります。

夫や息子を収容所で亡くして悲惨な生活をしている日本人妻やその子供達、兄弟を亡くして一生苦しく生きている人々を沢山見ました。

今の北朝鮮もあんまり変わりません。一言で言うと北朝鮮は国全体が大きな牢屋のようなものです。

人間の権利も自由も保障されない

言論の自由がないです。政府を非難する言葉一言で捕まります。

あと移動の自由がありません。自分が住んでいる所から何日間でも離れる場合、職場はもちろん居住地の市長、警察の許可を得て通行手形のような物を貰い、途中で検問を何回も受けます。

電車も電気がよく止まるので、その時に電車の中で通行許可書をかならず見せます。

また人間の権利が保障されていないです。選挙には必ず参加して賛成票を入れなければいけません。

投票所には監視する人がいて賛成票を入れない人は捕まります。捕まると政治犯収容所に入ります。

北朝鮮では小学校2年生になれば少年団体から始まり、大きくなれば青年団、死ぬまでいろんな組織に入って自分のことすべてを報告しなければいけません。

それほど自由がないのに義務だけは多いです。

その中で一番酷いと思うのは仕事をしても最低限の生活が保障されてないことです。

生きるために闇市で商売

これがもっとも理解できない所だと思いますが、一か月働いても日本円で300円しか貰えません。そのお金では2~3日分の食べ物しか買えません。

生きていくためには闇市で商売するしかありませんでした。北朝鮮では人口の8割が市場で商売しているので過当競争で利益は非常に少ないのです。

商売がうまくいかない人とその家族は飢え死にします。北朝鮮の国民は王様のために存在する奴隷だと思います。

イルミネーションのために強制募金

2002年、小泉首相が北朝鮮を訪問して拉致被害者の問題で日朝関係が悪くなってすぐの事ですけど、当時、金正日はピョンヤンで走っている日本車が気に食わないと言って全部没収して破壊しました。

その中には個人のものもありましたけど政府は何の賠償もしてくれませんでした。

2010年、金正日は全国視察としてハムフン(咸興)市、チョンジン(清津)市などへ行ったことがありました。その時夜の街が暗いからイルミネーションをつけるように指示しました。

市長は市民から強制的にお金を集め、イルミネーションを町につけました。電気が足りないので一般家庭は一日5時間位しか電気をつかえません。

町には金正日の指示でイルミネーションが光っていますが、市民たちは電気が来なくてロウソクの下で夕食を食べていました。

このように北朝鮮政府は国民の事は何一つ考えていませんでした。

通貨改革で個人の金を没収し自殺者も

2008年、北朝鮮では通貨改革がありました。これは個人のお金を没収するための政策でした。

北朝鮮は金の資源が豊かで闇市で金の商売をする人がたくさんいます。政府は、通貨改革を行う前に闇市より高い値段で個人の金を回収しました。

そのあと通貨改革をして一人当たり3000ウォンだけ新券に変えてくれましたが、残りのお金はすべて紙くずになりました。その時は戦争の時と同じでした。

闇市は完全に止まり、値段を決めることができなくて物を買えませんでした。何年間も商売で集めたお金を台無しにした人達は、自暴自棄に陥り、堕落したり、多くの自殺者を出しました。

通貨改革のせいで3ヶ月間市場が止まってしまったので、外貨のない人は市場の仕事もできなく、貰った3000ウォンも使い切り、家族みんなで飢え死にしました。

このことをきっかけで国民は政府に対し不満や不信を強く感じるようになりました。

私は未来を夢見ることができない国、この国ではもう生き甲斐がないと思ったので、命がけで日本に来ました。

(文//北朝鮮難民救援基金 NEWS Jul 2017 № 105より転載)

北朝鮮難民救援基金ホームページ

北朝鮮難民救援基金フェイスブック

北朝鮮難民救援基金ツイッター

注目記事