「東洋一」の同潤会、江戸川アパートメントに存在した昭和の古き良きコミュニティ

同潤会シリーズの中でも「東洋一」と呼ばれた江戸川アパートメントの元居住者に、往時の様子をうかがいました。日本に初めてアパートという概念を持ち込んだ同潤会が、どんなコミュニティを育んできたのか、そこに暮らした人の思い出や写真と共に振り返ってみましょう。

今回は、同潤会シリーズの中でも「東洋一」と呼ばれた江戸川アパートメントの元居住者に、往時の様子をうかがいました。

日本に初めてアパートという概念を持ち込んだ同潤会が、どんなコミュニティを育んできたのか、そこに暮らした人の思い出や写真と共に振り返ってみましょう。

■日本の鉄筋集合住宅の先駆け〜同潤会

同潤会は、関東大震災の義援金を元に、大正13年に内務省によって設立された財団法人です。大震災を受け、不燃造りの鉄筋ブロック造りの集合住宅の計画的な供給を推進し、合計16棟の同潤会アパートを建築しました。

昭和9年に竣工された江戸川アパートメントは、同潤会シリーズでは最後となる16番目として、新宿の牛込の地に建設されました。近代生活の最新設備を取り入れ、「東洋一」と謳われた、当時としてもかなりゴージャスな欧風アパートメントでした。

■コミュニティの中心となる広い中庭や社交室を備えた江戸川アパートメント

こちらが江戸川アパートメントの見取り図です。

敷地の半分以上もある中庭を囲んで凹型の一号館と、直線型の二号館とが対面して配置されています。中庭には、桜や藤棚、銀杏の木があり、まるで回遊路のように、居住棟が中庭を取り囲んでいました。

江戸川アパートメントの特長は、緑がいっぱいの中庭、共用部分にあたる社交室・共同浴場・理髪室、そして5〜6階に設けられた4.5〜6畳の独身部屋です。子ども達が遊ぶ中庭や社交室、共同浴場などは、まさにコミュニティ機能満載。ここから居住者同士のつながりが育まれていったのでしょうか。

独身部屋は、室内に流しやトイレはなく、押し入れと一室だけのワンルーム構成となっています。

こちらは1階住戸。造り付けのマントルピースがモダンな内装で往時が偲ばれます。

同潤会がユニークな点は、小さい部屋が最上階に配置されているところ。また、家族向けに37タイプの間取りの部屋がありました。最上階になるほど贅沢な部屋になっていくというという概念は存在しなかったのか、いまのマンションの考え方とは真逆ですね。

建設当時には、最新設備を備えたモダンな住まいとして、当時のモガ・モボと呼ばれたお洒落な人々や文化人・知識人が入居希望者として殺到したそうです。

■戦前から戦後の高度成長期を見守ってきた江戸川アパートメント

江戸川アパートメントでのお話をお伺いしたのは、日本舞踊音楽家の須賀敬三さんです。

須賀さんは、昭和23年頃から家族と住みはじめ、昭和51年に結婚して実家から独立するまでの約28年間を、江戸川アパートメントで暮らしました。

「子ども時代の思い出がたくさん詰まったアパートでした」と、江戸川アパートメント時代を振り返る須賀さん。

戦後の日本が高度成長期に入り、どんどん生活が便利になっていった、古き良き昭和の時代を江戸川アパートメントのコミュニティで過ごしました。

須賀さんは、兄2人と両親の5人暮らしの家族。小学校に上がる前に、江戸川アパートメントへ引っ越してきました。

「最初は、5人家族で、一号館の6階にある6畳の独身部屋に住んでいたんですよ。今じゃ考えられないでしょうが(笑)、その頃は割と当たり前でした。他の独身部屋にも、親戚や子どもと一緒に住んでいる大家族が多くいました」

「独身部屋には台所がなく、5〜6階の独身部屋共用の炊事場が廊下にあって、母はそこで家族のごはんを拵えて(こしらえて)いたんじゃないですかね。

独身部屋に暮らしている頃は、横のつながりも密で、アパートメントなんだけど長屋状態。おかずのやりとりがあったりね。居住者がみなしっかりつながっている感じがしました」

いままでの日本の長屋での暮らし方やコミュニティがそのまま、同潤会というモダンなアパートメントに移行したイメージです。

■大人の誰もが、ちゃんと子どもを叱る時代だった

「当時独身部屋に、こうるさい親父さんがひとり住んでいて、子どもが騒いで廊下を走ったりすると、バケツに水を汲んできて引っ掛けるんですよ。

アパートメントの中は、そんなうるさい大人ばかりでしたよ。子ども達が中庭で遊んで大声で騒ぐと必ず叱られました(笑)」

近所の大人が自分の子どもも、よその子どもを叱る。よき昭和の躾が生きていた時代だったのですね。

そんな関係も、中庭や廊下や社交室といった共用のスペースがあったから築き上がったのかもしれません。

広い中庭は、子どもたちの遊び場であり、居住者全員が子どもを見守る場でもあったのですね。

■2階の家族部屋へ家族でお引っ越し

「そのうち、1号館の2階の角部屋に空室ができたので、52号室の部屋へ引っ越しました。いわゆる家族部屋ですね。6畳・6畳・4.5畳・台所の3Kでした。その頃は、空室が出ると、優先的にアパートメント内の居住者が引っ越しできるようなシステムになっていました」

同じく江戸川アパートメントに住んでいた橋下文隆氏の著書『消えゆく同潤会アパートメント』(河出書房新社)にも、「ライフサイクルに合わせて自然な形での内部転居が可能」(p.044)だったことが紹介されています。

子どもが大きくなれば勉強部屋として独身部屋を借りたり、独立した若夫婦には新婚向けの部屋を借りたりできたという、バラエティ溢れる間取りの江戸川アパートメントは、コミュニティの人間関係を維持したまま、ライフサイクルの変化に対応できました。

同じアパートメント内で転居したいと思わせるほど、住み心地のいいコミュニティが形成されていたのでしょう。もしかすると、今後の大規模マンションには、ライフサイクルの変化にも応じて住み続けられるコンセプトが必要なのかもしれません。

こちらは階段の手すり。随所のディティールが洒落ています。

(写真左)玄関の足元にある丸窓。/(写真右)内部の階段。正面にメーターボックスが見えます。ここを子ども達が駆け上がったのでしょう。

■中庭や物干し場、アパートメント中を駆け巡って遊ぶ子ども達

「江戸川アパートメントには、有名人の家庭もあれば普通の家庭もありました。私は、近所にあった公立の津久戸小学校に通っていましたが、別の私立小学校に通うエリートの子どももいましたね。

子どもたちも、通う小学校によってグループが違う。そういう派閥みたいなものもありましたよ。近隣の子どもたちは、あまりアパートメントの中には入ってこなくて、アパートメント内で仲のいい友達と、中庭や6階の屋上の物干し場で遊んでいました」

「屋上の物干し場の突き当たりには、平らな洗い場があって、夏になるとそこに水を貯めて、浅いプールのようにして遊んだものです。当時まわりには、うち以外に高い建物がなかったから、正月には屋上で凧揚げが出来たのも楽しかった思い出のひとつです。

そういえば、屋上の塀を乗り越えて遊んでいて、落っこちちゃった友達がいたなあ。中庭の樹木にひっかかって命が助かったんです」

(写真左)中庭の桜の木も、シンボルツリーのような存在でした。/(写真右)中庭の樹木が視界を覆う外観。やんちゃな子どもは木登りなんかもしたのかもしれませんね。とにかく緑溢れる贅沢な環境。

「一号館の地下には共同浴場があって、一日おきに入浴することができました。みんなそこでお湯をつかっていました。季節ごとに菖蒲湯や柚湯があるんですが、子ども心にもそれが嬉しくてね。私自身、いまだに季節のお風呂にこだわるのは、この時の思い出のせいだと思います」

■文化人居住者と「江戸川アパートメント新聞」

「江戸川アパートメントは、文化人が多く住んでいたことでも有名でした。私が住んでいた頃にも、劇作家の正宗白鳥さん、演劇評論家の坪内士行さん、精神科医のなだいなださん、仏文学者の山内義雄さん、当時の通商産業大臣の前尾繁三郎さん、劇画家のさいとうたかおさんなどが住んでいました」

「前尾さんは、大臣になられたときに、いろんなところからお祝いが届いて、部屋の前に贈り物が積み上がっていたのをよく覚えています。

さいとうたかおさんは、共同浴場にアシスタントを引き連れてよく入ってきていたけど、すごく怖かったなあ(笑)。仏文学者の山内さんの娘は、同い年だったけど、こまっしゃくれてて、癪に障るからよく喧嘩していました」

須賀さん家族が住みはじめた少し前の昭和22年頃から昭和25年まで、独身部屋の学生が中心になって「江戸川アパートメント新聞」というガリ版刷りの新聞が月2回発行されていました。

新聞には、騒音や不法占拠といったアパートの問題や、江戸川アパート文化部が社交室で開催したイベントの告知や感想などが書き綴られており、いわばアパートメント内フリーペーパーといった内容です。

須賀さん家族が引っ越してきた頃の昭和23年11月15日の「江戸川アパートメント新聞」には、「エレベーター修理に三〇万円」という記事が掲載されていました。引っ越し当時は小学校入学前だった須賀さんですが、「そういえばエレベーターが動いているのを見たことがない」とおっしゃっていました。「どうかエレベーターよ動け」という一文で終わっている記事のあと、結局修理費が捻出できず、そのままになっていたのでしょう。

また、社交室では、多く住んでいた文化人の関係からか、坪内士行(坪内逍遙の養子)氏の朗読、日本有数の弁士たる徳川夢声氏の「宮本武蔵」など、まさに文化サロン的なイベントが開催されていました。

共通の趣味嗜好を持つ人々が住んでいたということもあるのでしょうが、社交室を文化的イベントの開催に活用し、居住者コミュニケーションのための新聞が、連絡だけでなく、居住者の楽しみのためにも活用されていたのです。

通常、各戸に配布される管理組合からのお知らせは、実務的な書類がほとんどですが、江戸川アパートメントのように文化的な娯楽も織り交ぜた情報共有は、現代のマンションでも真似したい点です。また、文化イベントが自主開催となっていた点もいいですね。

当時の社交室では、週末の土曜日になると生バンドが入って、大人のためのダンスパーティが催されていました。カクテルドレスを着用する本格的なもので、須賀さんが子どもの頃には、まだこのダンスパーティが社交室で催されていたそうです。

ダンスパーティが行われたかつての社交室から眺めた中庭。

「引っ越してきた当時は小学校へ上がる前の子どもだったから『江戸川アパートメント新聞』があることなんて知りませんでしたね。でも社交室では、バレエ教室の発表会やプロのお芝居をやっていて、完全に大人のための娯楽室になっていました。子どもたちは廊下から中を覗くんです。

社交室でイベントが催されるときは、中庭で誰かが"これから徳川夢声さんの朗読があります!"って叫ぶんです。そんな文化的な催しが多かったですね。

大人がロングドレスを着てソーシャルダンスを踊っている姿を見て、かっこいいなあって興奮したものでした。新劇の芝居もそこで初めて見ました。抱き合っている男女を、目の前で初めて見たもんだから、子ども心に衝撃的でしたね。蓄音機のレコードも初めてそこで聴きました。

大人の文化や風俗を垣間見た社交室で見聞きしたことは、いまだでも強烈に焼き付いている思い出です」

「1号館の地下には理髪室もありました。そこで初めてテレビを見せてもらいました。子どもたちみんなで理髪室に行ってテレビを見にいくんですよ。僕は、母親の影響で歌舞伎好きだったんで、理髪室のテレビで歌舞伎を見せてもらっていました。理髪室の親父は、"生意気なくそガキ"って思ってたんじゃないですかね(笑)。

そのときに先代吉右衛門の「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとのえいざめ)」の舞台中継を見せてもらったんだけど、途中でチャンネルを変えられたのが悔しかったなあ。いまだに悔しい(笑)」

みんなで初めてのテレビを見て娯楽を皆で共有した思い出というのは、深く心に刻まれるものですよね。

江戸川アパートメントの時代に比べると、いまのマンション暮らしでは、居住者同士で娯楽を共有しあう機会が非常に少なくなっています。「楽しみの共有」というのも、マンションコミュニティをよりよくするキーワードのひとつかもしれません。

「結局、僕は32歳で結婚するまでここに住んでいました。父親が亡くなったときには、社交室を葬儀に使いました。建物はどんどん傾いて老朽化していくし、子どもの頃の友達も、大きくなったら出ていったし、残ったのはじいさんばあさんだけでね。友達もほとんどいなくなっていきました。

それでも、ここで住んでいた子ども時代の思い出は、自分の中で大きな意味があったと思いますよ。中庭や屋上という遊び場があったこともよかった。中庭で子ども達が夕方まで遊んでいると、窓からお母さんたちが"ごはんよ"って声をかけるんですよ。そしてひとりずつ部屋に帰っていく。

江戸川アパートメント自体が、ひとつの家族のような暮らしだったんですね。そんな、かけがえのない子ども時代を、この江戸川アパートメントで過ごすことができました」

「3年ほど前に、それまで暮らしていた戸建てから、200戸くらいの大規模マンションに引っ越しましたが、ここではほとんどご近所づきあいというものはないですね。

江戸川アパートメントのような暮らし方は、きっともう二度と味わえないと思います。いまから思えば、あの頃はいい時代だったんでしょうね」

江戸川アパートメントは、須賀さんが住んでいた頃から老朽化が激しくなっていたそうですが、昭和47年から30年以上にもわたって建て替え検討の話し合いが行われた末、平成14年3月に建て替えが決議されました。

須賀さんが住んでいらっしゃった江戸川アパートメントには、昭和という時代背景もあわせて、人と人とが密接につながっていたコミュニティが確かに存在していました。

居住者が娯楽を楽しむ共有の場があり、誰もが声をかけあい、よその子どももうちの子どもも区別なく育てる暮らし。そんな昭和の同潤会での住まい方とコミュニティの結びつきを、私達はいまいちど見習うべきなのかもしれません。

※今回掲載した江戸川アパートメントの写真は、「みんなで作る、建築写真と地図のデータベース「arhimap」(http://www.archimap.info)に掲載されている(有)建築情報 浅賀 崇さん撮影によるものです。