「政治家・舛添要一」を正確に評価するために 厚労相時代の功績を振り返る

我々、納税者が政治家を評価する際には、その能力と限界を天秤にかけねばならない。本稿が、都民の皆さんが、舛添知事を判断する上での参考になれば幸いである。

舛添要一・東京都知事へのバッシングが凄まじい。都知事就任前の政治資金の使い途の問題から、飛行機でのファーストクラスの利用、週末の湯河原滞在など、批判は多岐に渡る。一人の納税者として、舛添知事には、このような振る舞いは慎んで貰いたいと思う。また、政治家としての責任はとっていただきたい。

ただ、同時に舛添知事を、このような理由で叩くことが、果たして納税者の利益になるのかは疑問を感じる。

なぜなら、舛添氏は、政治家としての卓越した能力を持つからだ。私見だが、過去に私がみてきた厚労大臣の中で、舛添氏の業績は傑出している。

詳細を知りたい方は、舛添氏の『舛添メモ 厚労官僚との闘い752日』(小学館)や、舛添厚労大臣の下で医療改革を押し進めた村重直子氏の『さらば厚労省 それでもあなたは役人に生命を預けますか?』(講談社)をお読みいただきたい。

我々、納税者が政治家を評価する際には、その能力と限界を天秤にかけねばならない。「舛添はけしからん」の一点張りで、彼を辞職に追い込むことが、果たして納税者の利益になるかは冷静に考えるべきだ。本稿が、都民の皆さんが、舛添知事を判断する上での参考になれば幸いである。

【医学部定員増の舞台裏;抵抗勢力との闘い】

私は医師で、医療ガバナンスを研究している。医療政策や意思決定過程について、調査研究を続けてきた。

舛添氏の功績として際立っているのは、医学部の定員増だ。これは、抵抗勢力の存在を考え、誰も手をつけようとしなかった。それを舛添氏はやり遂げた。この政策を実現するためには、さまざまな抵抗勢力と闘い、そして妥協点を探った。まさに政治家の仕事だ。

官僚とも戦った。舛添氏が医学部定員を増やそうとしたときには、文科省医学教育課長に出向中だった医師免許を持つ厚労省の幹部官僚が、東大などの医学部長に「医師はなるべく増やさない方向で頼みます」と電話し回ったことが判明している。

厚労省の幹部官僚から、直接電話で「依頼」された国立大学の医学部長たちは悩んだことだろう。厚労大臣は大きな権限を持つ。しかしながら、任期は通常1-2年だ。一方、幹部官僚は、その人物が退官するまで、研究費の工面や審議会の人選などで「お世話」になる。大臣と幹部官僚の板挟みにあった場合、どちらにつけばいいか明らかだ。

舛添氏は様々な手法を用いて、この状況を克服した。例えば、前出の医系技官のケースでは、マスコミにリークした。舛添氏本人ではなく、彼の意向を汲んだ部下たちが動いたようだ。このことは、08年10月10日、日本経済新聞が朝刊の一面で報じ、大臣に対して面従腹背の厚労官僚の姿が国民に曝された。

高級官僚が、大臣の意向に反して、自らが管轄する業界に指示することは、公務員としての職務義務違反だ。処分されても仕方ない。勢いを失った当時の自民党政権下の霞ヶ関では日常茶飯事だった。

では、なぜ、舛添氏はこういうことができたのだろうか。それは厚労省内の心ある官僚たちが、舛添厚労大臣を応援したからだ。2007年夏に厚労大臣に就任後、「誠実に勤務する姿が、部下で官僚たちの信頼を得た(厚労官僚)」という。

当時、舛添氏は官僚の準備した資料に目を通すと同時に、自分個人の外部人脈も使い、厚労行政一般を勉強していた。そして、官僚たちの説明を自分なりに理解し、分からないところは質問していた。こういう地道な努力が両者の相互理解を深めた。

ただ、これだけで抵抗勢力が大人しくなった訳ではない。普段は抗争を繰り返している組織でも、共通の敵が出現すると、一枚岩になって反対する。日本医師会など医療業界団体にとっての共通の敵は「規制緩和」だった。特に、医学部定員の増員は、将来的に、自らのライバルを増やすことになるから、絶対に承服できない。彼らは一枚岩となって反対し始めた。

このような「抵抗勢力」に対抗するには、世論を味方につけるしかない。舛添氏にとって幸いだったのは、2006年の福島県立大野病院産科医師逮捕事件以降、社会の医療への関心が高まっていたことだ。現に、2007年に民主党が躍進した参議院選挙では、医療が主要なテーマとなった。

舛添氏は、2007年の参院選で自民党が惨敗したのを受けて成立した第一次改造安倍内閣で厚労大臣に就任した。つまり、大臣に就任した時点で、既に「医師不足」に対する社会的合意が形成されつつあった。

さらに、2008年10月には、東京都立墨東病院でたらい回しされた妊婦が死亡する事件が起こり、マスコミは、連日のようにこの事件を報じた。

当時の全国紙で「医療崩壊」、あるいは「医師不足」という単語を含む記事の推移を図1に示す。彼が厚労大臣を務めた期間は「医師不足」や「医療崩壊」が連日のようにマスコミを賑わせていたことが分かる。舛添氏は、このような世論を背景に、日本医師会やその意向を受けた族議員の抵抗を抑えることに成功した。

舛添氏が利用したのは、このような世論だけではない。彼が重視したのは参議院での与野党逆転の情勢だ。当時、最大野党の民主党の医療政策をリードした仙谷由人・元官房長官や鈴木寛・元文科副大臣と太いパイプを持っていた。仙谷氏や鈴木氏は、医師を増員すべきと考えており、彼らが中心になって作成した民主党のマニフェストは、ほぼ舛添氏の考えを踏襲した。

図1:「医療崩壊」、あるいは「医師不足」という単語を含む全国紙の記事数の推移

舛添氏は、世論、および政治的なバランスを利用して抵抗勢力を抑え込み、2008年6月17日に、1997年の医師定数削減の閣議決定を撤回させることに成功する。同日の記者会見で舛添氏は、「(政府は従来)医師数は十分だ、偏在が問題だと言ってきたが、現実はそうではない。週80-90時間の医師の勤務を普通の労働時間に戻すだけで、勤務医は倍必要だ」と述べて、必要な医師数に関する具体的な数字を挙げた。

翌日には、超党派の「医療現場の危機打開と再建をめざす国会議員連盟」(会長・尾辻秀久・参院議員)が、舛添要一・厚労相(当時)を訪問し、医学部定員を毎年400人ずつ増やし、現在の8,000人を10年後に1万2,000人にまで増やすことを提案した。

「医療現場の危機打開と再建をめざす国会議員連盟」は、民主党の仙谷由人氏や鈴木寛氏らが主導したものだ。舛添氏は参院で過半数を占める民主党と連携することで自民党内の族議員を牽制、日本医師会や厚労官僚の抵抗を押しきった。この結果、2016年3月現在までに約1500人の医学部定員が増員された。

【厚労省と日本医師会の盛り返し】

2008年当時、舛添氏の政策に強く反対した日本医師会や厚労省も、今となっては、この「改革」の意義を強調している。ただ、その主旨は舛添氏とは正反対だ。要約すると、「医師は十分に増えた。これ以上、増やさなくても、やがて充足する」となる。

日本医師会は勿論、厚労省もいつの間にか「抵抗勢力」に逆戻りした。彼らは自らの主張を、熱心に記者クラブで説明する。そして、マスコミは、彼らの主張をそのまま報じる。例えば、2015年7月1日の読売新聞の記事だ。

「日本の人口10万人あたりの医師数が10年後、先進国が主に加盟する経済協力開発機構(OECD)の平均を上回るとの推計を厚生労働省がまとめた。医学部の定員増などで、先進国の中で低水準という長年続いた状況から抜け出す見通しとなった。地域や診療科によっては医師不足が続く可能性もあり、厚労省は夏以降に有識者会議を設け医師養成のあり方を検討する。

厚労省は、医学部の卒業生数や今後の人口推計などを基に、将来の10万人あたりの医師数を推計した。

それによると2012年の227人から20年に264人まで増え、25年には292人となり、OECDの平均(11年、加重平均)の280人を上回る見込み。その後も30年に319人、40年に379人と増加が続く。政府による医学部の入学定員の増員策や人口減少の影響が出る格好だ。」

この記事を読んで、どのようにお感じになるだろうか。私はナンセンスだと思う。最大の問題は、国民の年齢構成、医師の年齢構成、性別を全く考慮せず、単に医師の人数だけを比較していることだ。

さらに2025年に2011年のOECD平均に到達することを、医師充足の指標としている。我が国は世界でもっとも高齢化が進んだ国だ。現在のOECDの平均に10年後に到達することに、どのような意味があるのだろう。

【厚労省、日本医師会、医学部長たちが医師増員に反対する理由】

では、なぜ、厚労省は「医師不足は緩和する」と強硬に主張するのだろうか。

それは、厚労省は医師が増えると、医療費が増えると考えているからだ。これを医師誘発需要説と言う。厚労省は「医療費を抑制することが最大の使命」と考えていう。

2015年9月13日、日経は一面トップで「医学部の定員削減、政府検討 医療費膨張防ぐ」という記事を掲載した。典型的な厚労省のリーク記事だ。彼等の考えがわかる。

医師誘発需要説とは、そもそも何だろうか。この学説は、1983年に米国の医療経済研究者である Rossiterたちのグループによって提唱されたものだ。当時、世界の多くの研究者が、この仮説を受け入れた。

1983年には、吉村仁厚生省保険局長(後の事務次官)が論文や講演・国会答弁などで「医療費亡国論」を強硬に主張した。その後、1995年村山内閣の少子高齢化対策、1997年の医学部定員の削減に関する閣議決定、2002年から小泉内閣によって実施された骨太の改革へと繋がっていく。この間、将来的な医師不足については議論されず、医学部定員を増やすことはなかった。

1990年以降、その後の研究結果が発表され、一部の医師は自らの収入を増やすため、不要な医療行為を行うが、その絶対数は少なく、国家レベルでは問題にならないこと、および、医師と患者の間に情報の非対称が存在しても、患者の医療知識が増加するにつれ、患者の決定権が大きくなってきていくことが明らかとなった。

ただ、医師誘発需要説の妥当性は状況次第だ。医師が足りない状況では、医師を増やせば医療費は増える。一方、医師数が一定レベルを超えれば、医師を増やしても、医療費は頭打ちになる。問題は、現在の我が国がどのような状況にあるかだ。

実は、我が国の医療体制は地域によって大きく異なる。図2に示すように、西日本では医師数と無関係に県民一人あたりの医療費はほぼ一定であるのに対し、医師数が少ない東日本で両者が相関している。

図2:各県の人口当たりの医師数と県民一人あたりの医療費の関係 医師数は平成24年医師・歯科医師・薬剤師調査より。医療費は平成23年度 厚労省の医療費の地域差分析より。

普通に考えれば、東日本では十分な医療を受けていないことになる。つまり、医師を増員する必要がある。当然だが、東日本の医師を増やせば医療費は増える。強面の財務省と対峙しなければならなる。厚労省にとって頭の痛い問題だ。

この話は、日本医師会や医学部長たちにとっても嬉しくない。商売敵が増えるからだ。日本医師会の幹部の中には、医学部新設の是非を議論するために設置された文科省の検討会で「(数が増えて儲からなくなった)歯科医のようになりたくない」と公言して憚らない人もいる。医学部長たちも「医師を増やすと、教育レベルが下がる」という理由をあげる。医学部が新設され、ライバルが増えるのを嫌がっているだけだ。

図3は、過去30年の医学部の偏差値と東大理一の偏差値を比較したものだ。医学部の偏差値が急上昇していることがわかる。ちなみに、医学部定員が増員された最近5年間をみても、国公立大学医学部の偏差値は低下していない。抵抗勢力の理屈は、国民の健康より、自らの利益を優先したエゴ以外の何物でもない。

図3:過去30年間の国公立大学医学部と東大理科一類の偏差値の推移の比較 村田雄基氏作成

【このままでいいのか】

国民にとって不幸だったのは、厚労省と日本医師会やの利害が一致してしまったことだ。厚労省は、医学部新設のために、財務官僚と対峙したくないし、日本医師会や医学部長たちはライバルを増やしたくない。

ただ、彼らも医師不足対策に全く努力しないわけにはいかない。その際の言い訳に使うのが、舛添厚労大臣時代にやった医学部定員の増員だ。しかしながら、これも必死に骨抜きにしようとしてきた。

舛添氏は厚労大臣当時、今後10年間で、医学部定員を5割増やすことを打ち出した。つまり、医学部定員数が1万2000人になるまで、毎年400名ずつ定員を増やすことを目指そうとした。

2009年に与党となった民主党も、このことをマニフェストに明記し、舛添氏の方針を踏襲した。

しかしながら、この方針はやがて有耶無耶となった。医学部定員が当初の予定通り増員されたのは2010年度までで、2011年度には77人の増員に減らされた。東日本大震災で東北地方の医師不足が顕在化したにもかかわらず、医学部定員の増員にはブレーキがかかったのだ。

その後、現在にいたるまで大きな変化はない。2015年度入試での定員は9234人で、前年から65人増やすだけだった。

さらに、2015年9月13日、日経は一面トップで「医学部の定員削減、政府検討 医療費膨張防ぐ」と報じた。厚労省は、20年から医学部定員を削減しようとしていることを報じ、医師数削減を既成事実化しようとしたことになる。果たして、これでいいのだろうか。

図4は首都圏の75才以上人口1000人あたりの60才未満の医師数の推移を示す。全ての都県で団塊世代が亡くなる2035年頃に一時的に回復するものの、その後は悪化している。このまま無策を決め込めば、首都圏の医療は崩壊する。

図4;首都圏での75才人口1000人あたりの60才未満の医師数の推移

筆者と井元清哉・東大医科研教授の共同研究

高齢者社会で医師不足は深刻な問題だ。ただ、この問題は、受益者である国民が問題を認識しづらい。一方で、既得権者や厚労省は一致団結して反対する。私が知る限り、厚労大臣の立場で、この問題に真っ正面から取り組んだのは、舛添要一氏だけだ。そして、医学部定員増というハードルの高い仕事をやり遂げた。私は、彼の能力を高く評価している。

いま、舛添叩きをすることは簡単だ。果たして、それだけでいいのか、納税者の皆さん、是非、考えて頂きたい。

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