「研究機関の医療倫理」という領域に、政府が介入するのは正しいのか?

なぜ、医療倫理という問題に政府が介入することに、誰も違和感を抱かないのだろう。

東大医科研を辞し、医療ガバナンス研究所に移り、半年が経過した。相変わらず、診療・研究・教育活動を続けている。

研究を進める上で、倫理委員会は必須だ。独立した研究機関になった以上、私たちも倫理委員会を立ち上げることとした。この旨、中央大学経済学部4年で、当研究所のスタッフである三浦基君に指示した。三浦君には倫理委員会に詳しい専門家を紹介した。

三浦君からの報告を聞いて驚いた。「今さら倫理委員会を立ち上げても遅い。倫理委員会は集約化され、国が認めたものしかなくなる」と言われた」と言うのだ。

確かに、日本医療研究開発機構(AMED)のホームページには「倫理審査委員会認定制度構築事業」について記載があり、その必要性を「「倫理審査委員会ごとに審査の質にばらつきが生じている」との指摘」があるためと説明している。15年度には東北大学など、6つの大学が認定されている。

この事業の真意について、知人の厚労官僚に問い合わせたところ、「海外の制度を参考に作っており、今後は法制化も視野にしている。国が認定するのは、そんなにおかしいのでしょうか」という回答が返ってきた。

なぜ、医療倫理という問題に政府が介入することに、誰も違和感を抱かないのだろう。

丁度、三浦君と議論しているところに、小松秀樹医師がやってきた。『医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か』などの著書で有名な論客だ。

小松医師に、この問題についての意見を聞くと、「ありえない。国が倫理をコントロールすればナチスだ。そもそも医療倫理は、戦後、ナチスへの反省から生まれた。こんな議論を真顔でしているのは、日本人の知性が劣化している証左だ」と喝破した。医療倫理の専門家や厚労省の意見とは正反対だ。

では、厚労官僚が「錦の御旗」とする海外の議論とは何だろう。最近、New Engl J Medに、米国バンダービルト大学のローラ・スターク博士らが、「Clinical Trials, Healthy Controls, and the Birth of the IRB」という論文を発表し、その中で'Central IRB'が生まれた経緯を説明している。

米国でIRBが始まったのは50年代だ。きっかけは、NIHの臨床センターで「ボランティア」を臨床試験に登録していることが問題となったからだ。当時、「ボランティア」と言えば、囚人や軍人、医学生だった。

その後、NIHが資金を提供し、他施設で実施される研究についても、倫理的な問題が指摘されるようになった。70年代に発覚したタスキギー事件など、その代表例だ。32~72年までアラバマ州タスキギーで米国公衆衛生局が、梅毒の無料治療を提供すると称して、黒人の梅毒患者を無治療で経過観察した。

このようなケースを通じ、臨床研究を実施する各施設にIRBを設置することが求められるようになった。それが'local IRB'だ。

ところが、この仕組みに不都合が生じている。多施設共同研究で、各施設がIRBを設置するのは金と時間の無駄なのだ。スターク博士らは、この無駄を解消する仕組みが'Central IRB'であるという。このため、単独あるいは数施設で実施する小規模な臨床研究は、対象とならない。そもそも「今回のIRB改革の提言は、政策担当者による規制強化を求めるものではない」と強調している。'Central IRB'の主旨は、現場の研究者の支援であり、国家統制ではないのだ。

厚労省やAMEDの担当者とは対照的だ。彼らのやり方は、補助金と引き替えに、倫理委員会の統制を進めることになる。医療倫理の世界の常識から逸脱している。前出の三浦君は「どうして、日本では世界の議論がこんなにねじ曲がるのでしょうか」と言う。

私たちの研究所は、多施設共同の前向き研究には参加しない。福島などをフィールドとした小規模でretrospectiveなものばかりだ。従来の予定通り、独自に倫理委員会を立ち上げることとした。

小さい組織のメリットはスピードだ。大組織の倫理委員会を利用すれば、我々の長所が失われる。その代わり、情報開示を徹底したい。倫理委員会の委員をお願いする方々には、忌憚のない率直な意見を賜りたいと思う。

*本稿は「医療タイムス」での連載に加筆修正したものです。

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