第1話 超絶ダメ人間だった10代

中学生活は苦い思い出しかない。勿論自業自得なのだが......。
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20歳(社会人)になるまで本当に中途半端だったと思う。

中卒経営者である父親と、少しだけお嬢様だったらしい母親から「大学には行ってほしい」という願いがあり、小3から中学受験の為の塾通いが始まる(中学受験に関しては、父親は反対だったらしいが)。

何の為の受験勉強なのか、なんで好きでもない勉強をしなければならないのか、なぜ怒られなければいけないのか、そんな気持ちで勉強すれば(ほとんどしていなかったかも)塾は"苦痛の時間"以外のなにものでもない。当然スピードについていけなくなり、理解しないまま塾に通う日々が続く。

そんな時間を耐える為に、休み時間は廊下でサッカーをしたりして現実逃避。おかげで、やっているフリなど誤魔化す術だけがうまくなっていく。良くない傾向だ。

唯一好きで始めた野球だけは生き甲斐だったが、何の努力もなくセンスだけで活躍してしまった。キャッチャーとピッチャーをやって4番バッター。市内で1番だとも言われていた。これはこれで後に悲劇を生むとは知らずに・・・。

そんな感じで週4で塾に通っていてもほとんど内容は理解できない。実際は、ただ通っていただけ、である。それでも栃木県にある某日大付属高校には受かった。甲子園に行った実績もあるし日大付属だという事で片道2時間をかけて通うことになる。

中学には野球部がなかった為、地元のクラブチームへ入団した。県南で有名な選手たちが集っていたこともあり、自分より上手な選手たちを初めて目の当たりにして少し焦るも、やはり努力はしなかった。最終的な実力は上から数えて6、7番目位(ポジションの特性はあるが)だったと自負するが、おそらく監督コーチは僕の野球への取り組み方や努力の姿勢を見抜いていたのだろう、野球で初めて干される経験をする。

「正直なんで俺が?」と思ったし、「俺の方が打ってるし、俺の方がうまいでしょ!」といった感じで更にやる気がなくなり、辞める打診までした。監督コーチから引き留めてもらい辞めることは思い留まったが、馬鹿な僕はそれでも努力はしなかった。

そんなこともあり結局公式戦ではほとんど使ってもらえなかった。

実は監督の上にGMがいて、この人が名将と言われた監督であり恩師にあたる人。タイミング悪く、3年の新チーム結成時に恩師がGMに繰り上がり(事実上の引退)監督が新しく変わったばかりだった。不運ではあったが唯一の救いはそのGMから卒団前の面談で「俺なら三浦をそれでも使った。プレイセンスと数字を見れば当然。使いながらそのズルい部分を矯正した」と言われたことだった。

確かにGMには遅刻を誤魔化して何気なく朝合流したときに、強烈なビンタ(今思い出しても人生で1番痛い)をおみまいされた(笑)。

いずれにせよ干されるという貴重な経験をし、我慢して耐えるということを学んで中学野球を終えた。

勉強の方はというと、最低限の宿題とテスト前だけの追い上げしかやっていないので、ほとんど赤点ギリギリ。中高一貫システムにどっぷり甘えてほとんどやっていなかった。

なので中学生活は苦い思い出しかない。勿論自業自得なのだが......。

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高校に入ると、野球で特待生扱いになるため寮での暮らしになった。

ここでも勘違いをしてしまう。中学で高いレベルでやっていたからか、同級生と1学年上の代を見てすぐ様勝てると感じてしまった。3年生のレベルはさすがに高く感じたし、すぐレギュラーは無理だったが、秋の新チームではレギュラーは取れると思った。

入部早々に監督からピッチャーへのコンバートを打診され、更に有頂天になっていた。与えられた練習メニュー以外はほとんど練習しなかった。高校に入っても僕は懲りなかった。

そんな矢先に悲劇が起こった。ピッチング練習時の最後の玉を投げた際に肩から「パンッ!」といったような音が鳴るのを感じた。その後激痛が走り、肩が上がらなくなった。騙し騙ししばらくやっていたが、そもそも肩が上がらないし痛い。

やむなく病院へ行き診断を受けることに。結果は肩を支える筋肉と神経の断裂で全治1年ということだった。これまた自業自得だった。1年生の秋、そこから這い上がるほどの精神力を持ち合わせていなかった僕は、退部という選択をすることを選んだ。唯一の好きな事だったのにも係わらず。

退部した後は今までのフラストレーションを爆発させるが如く遊んだ。

勉強は相変わらず赤点を取ったり、取らなかったりだったが適当に済ませて遊んだ。

良くも悪くも最高に楽しかった期間でもあった。野球を辞めてしまったことを後悔したくないが為のことであったかもしれないが、とにかく遊んだ。

3年生にもなると大学受験がやってきたが、一貫校であることに甘え、これまた塾に行くだけ行って受験の為の勉強はほとんどしなかった。

むしろ今まで鍛えあげられてきた、耐えながら楽しさを作りだす能力(現実逃避)を発揮しまくっていた。ようは自分も他人も欺いて、遊んでいた。

それでも大学へ進学出来てしまうのが一貫校の怖いところで、そのまま大学に進学してまった僕は、自由という名に惑わされて大学には行きたいときに行き、行かないときは行かないというスタイルを取った。

結果的に1年で7単位しか取れず、早々に大学から留年決定の通知をもらい、留年してまでも卒業する意味を見出せず中退。

といったように、19歳までの僕は全て中途半端でズルく生きて誰かや何かのせいにし、現実逃避を繰り返していただけだった。

こんな僕がここから社会へ出ることになる。

第2話に続く

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