【ラポール、あるいはコミュニケーション(2)】呪いは犯罪か?--慶大生のLINE自殺教唆事件について

彼女にLINEで「死ね」などと送った慶應大学生が、自殺教唆の疑いで逮捕され、釈放された。「呪い」を、言葉によって相手の生命力を奪い、身体的なパフォーマンスを低下させる行為全般と定義するなら、彼の行為は「呪い」である。

彼女にLINEで「死ね」などと送った慶應大学生が、自殺教唆の疑いで逮捕され、釈放された。

「呪い」を、言葉によって相手の生命力を奪い、身体的なパフォーマンスを低下させる行為全般と定義するなら、彼の行為は「呪い」である。

呪いは犯罪だろうか?

もちろん、犯罪ではない。名誉毀損および脅迫という形で訴訟する事はできても、それは受け手が「そう感じた」という、リアクションがあって初めて成り立つもので、相手の解釈を待たずして、「言葉をかける」というその行為のみを罪に問うことはできない。

呪いの効力というのは、思いのほか大きい。この時代に何を非科学的な、と思われるかもしれないが、 現代においてさえ、「他人を呪う」という行為は形を変え、日常の中の些末な場面で発生している。

例えば、はてなブックマークで自分のブログの悪口を偶然、発見してしまった時。実家に帰った時、親が(何の気なしに)たびたび口にする「お前は昔から○○で変わらない」と言った発言。もしくは自分自身につけたキャッチコピー、ハンドルネーム、ついつい口にしてしまう定番化した謙遜、もしくは自虐。

特に、LINEやインターネットなどのツールによって、身体性を失った言葉だけが増幅され、力を持ち、相手に光の早さで突き刺さるようになってしまった現代において、呪いの力は強力だ。ネットという増幅装置によって、言葉の強さはかけ算的に増幅する。

facebookや健全なSNSなどの、美しい外皮をひとたびめくれば、日々、ネットの中では「死ね」だのなんだのと他人への罵詈雑言が飛び交っている。ちょっとした有名人ならtwitterでエゴサーチをすれば必ず一つは悪口が見つかる。

ともすれば親指で画面をフリックするすべらかな勢いに乗っかって、あるいは画面がつるりとスクロールするスピードに便乗して、あるいはLINEが届くあのはじける速度に背を押されて、うっかり本人にまで届けてしまう人もいる。他人を呪うことは、呪いに対する感受性が鈍じた現代、呪いを避ける瞬発力を削がれた現代において、ことのほか簡単だ。そして我々は気づかぬうちに誰かが誰かにかけた呪いをバトン渡しのように拡散して大波を作ってしまう。本人が飲まれて動けなくなるほどの大きな波を。しかし、その事に自覚的であることは案外難しい。自分が知らずして相手を呪っている事に。

呪いというのは、かならずしも悪意があって始まるとは限らない。むしろ本人に自覚のない場合がほとんどだ。たとえば先に述べたような親から子への呪い。「毒親」というのは知らないうちに我が子を呪いでがんじがらめにしてしまう親の事だ。お前は○○だという、親から子への一方的な規定が、たとえそれが些細でも、積もり積もって本人の生きる気力を萎えさせる。直接的な罵倒だけとはかぎらない。大半は薄紙を一枚一枚、子どもの全身に貼付けるようにして、身動きを取れなくさせてしまう。やがて鼻も口も塞いで相手の呼吸を止めてしまう。あるいは目を覆って盲にしてしまう。世界を自分自身のやり方で見させないように。

そして、子にとっては呪いでも、親本人はその事に気づかない場合が多い。やがて、子が親にそのことを伝えた時には、もう親は忘れてしまっている。呪いは、「自分が他人を呪うことなどあるはずない」という、無頓着な善人においてはなおたちが悪い。

もし自殺してしまった女子大生に、男子生徒が直接会ってあの言葉を言ったとしたらどうだっただろうか。彼女も彼に対抗するだけの身体的な強度があったはずだ。呪いに対抗する術は、相手の言葉のニュアンスを汲み取り、そして相手の言葉が自分の身体の深部に到達するスピードよりも速い速度でその言葉の意味を都合良く解釈してその強度を弱めてしまうことである。「これは呪いだ」と瞬間的に判断する、身体的感受性の敏感さ・繊細さと、同時に、意味的な精度はどうであれ、都合のよい形で解釈してしまうことによって自分自身を守るだけのおおざっぱさ・鈍感さ。人の身体は、敏感さと鈍感さ、このふたつの矛盾する能力を、相克させずに併せて強度とすることのできる素晴らしい装置だ。本来ならば。

だが、身体を伴わないコミュニケーションでは、その2つを発揮することが著しく難しくなる。言葉をそのまま、防御する事も、流す事もできずに、むきだしの神経系統でモロに受け取ってしまう。結果、過剰に傷つく、傷つけるということが起こってしまう。どうやっても完全に防ぐのは難しい。

では、最初から他人に呪われずに済むにはどうしたらいいか。

それは、自身が人を呪わないこと、それのみである。模範解答過ぎて鼻白む人もいるだろうが、それ以外の方法を私はまだあまり思いつかない。そのためにはまず、自分が普段気づかないうちにどれだけ人を呪っているかに気づく事だ。動機はなんであれ、誰しもが大なり小なり知らないうちに人を呪ってしまっている。

かつて、親しくしていた友人から著しく呪われそうになり関係性をシャットダウンした事がある。「小野さんの家族はどんどん関係が悪くなる」「小野さんの文章を書けなくさせることは簡単だよ」「お前がダメな人間だということを周りはみんな知っているよ」などの言葉を彼が頻繁に電話やメールで口にするようになったため、距離を置いた。しかし、恐ろしいのは、本人がそれを善かれと思ってやっていたり、度を超えた保護欲と育欲(という名の支配欲)、あるいは自分を好いてくれる仲間ほしさでやっていたりする事がたびたびある点だ。

そういう自覚なき呪いに対抗するにはただ一つ、呪いに対する身体的な感受性を日々高めておき、感知したらさっと離れる事。呪いに勝とうとしてはいけない。すぐさまそこを離れることだ。ブラック企業のように、人の身体的パフォーマンスを互いにじわじわと下げる、集団化した呪いから逃げるのはとても難しいかもしれないが、自分でやるしかない。親から延々と呪いをかけ続けられている人ほど、ずっと親元にいて離れないケースも多いが、そういう人は一刻も早くその場を離れるべきだ。

そして、自分が他人にかけられた呪いの反射作用として、他人に呪いをかけないこと。

自分が他人にかけようとしている呪いに敏感になり、自分の内部で遮断すること。身体的な強度がある程度なければかなり難しい行為だが、人の身体は脆い反面、それができるほどには強い。誰でも本当はその強さを持っている。それは私が1年間、整体を学んで来て知った事である。自分を呪っている相手も、また、"誰かを呪わざるを得ない呪い"にかかっている。それを自分のところで遮断すること。そうしつつ、現実的に身体のパフォーマンスを高める(スポーツでも武道でもランニングでもなんでもいい)ことで、徐々に呪いに対する鈍感さを身につけることができる。

そうして徐々に呪いに対抗する強度を高めてゆくことで、次第に、自分の所属する集団の強度も、知らないうちに高まってゆく。自分のまわりの小さなコミュニティの範囲内でいいから、まずは互いが互いを呪わない訓練をしてゆくことだ。

ま、なかなか難しいことではあるけれど、

それが家族内でできたとしたら、とってもサイコーだよね。

ブログ「None.」より転載

注目記事